スター☆はそこら中にいる

モニターの前に勢ぞろい―邪魔なんだが。

ごく最近の「青いかもめ(ブログ)劇場」の出演者たち。照明は悪いのに、皆さんいい顔してますねえ(作業中は単なる邪魔者にすぎない)。

スペースの都合で登場してないやつとか、撮影に間に合わなかったやつ(そうだ、さくらクラブの神戸チョコレートとグミ、どこに隠れた?)とか、「スーパーマーケット」シリーズ最初の、妻に隠された(らしい、自分の物忘れを他人のせいにする)すぐりの会の「湖池屋ハッシュドポテト」などなどなど、どこだ?

これから登場する可能性のあるやつも、早くもチョイ出ししている。いつかアナタの眼の前に出ていくぜ。と、偉そうに手前でアピールしている Bossのコーヒー缶には現在出演依頼を躊躇。確かに魅力たっぷりだけど、「(おれ、ホントは)難しいよっ」て顔してるじゃない?

店頭でどんなにウィンクしてくれても、水彩、油彩それぞれ、どんな手順を踏めば描きやすいか、吟味が要るんだよなー。迷っちゃうけど―“流し目”に単純に応えているわけじゃないンダよね。―でも、さすがデザイナーたちの手腕と消費者の厳しい批評眼を経ているだけあって、どれも魅力的。こちらのやる気さえあればいつでも出演OK! (^^) !だってさ。

「再現性」再考

湖池屋ポテトチップスを描く(油彩)

ここのところ急にポテトチップスだの、チョコレートだのと「お菓子」づいている。「伝統的な『絵画モチーフ』以外」を描くことで、画題的にも、技術的にもあらたな発見を求めようとしているが、これもその一環。今回は、モチーフはそれぞれ異なるが、どのクラスにも同じコンセプトを強いている。どのクラスの分もデモ制作しようと考えたら、毎日 のようにデモ関連の制作を続ける羽目になってしまった。

一番勉強になるのは、モチーフを強いているわたし自身だろう。モチーフ探しの場所もこれまでと180° 違い、近所のいくつかのスーパーだのコンビニだのを回るようになった。CGでも写実というより、写真的な「技術性」を求めて制作を試みている。

写真的描写=上手というだけの低レベルの常識を変えたいという思いから、これまではあえて細かい描写性を遠ざけてきた。けれど、そのことが逆に「伝統的な」絵画性にわたし自身を含めて縛りつけてしまったのかもしれない。そんな反省から、「イラスト」まで含めての絵画「再発見」と現実的な「技術的」観点から、あえて写真的描写にフォーカスしている。

「再現性」に対する人間の欲求はとてつもなく強い。学者の意見を聞くまでもなくビデオだの音楽におけるレコードだのを考えるだけで簡単に想像がつく。再現性に対して「即興的・抽象的イメージ」があるが、「論理性」に目を向けると、「再現性」に関する、人間の執拗なまでの努力の歴史が浮かび上がってくる。これを単に「つまらない・面白くない」というだけでは皮相に過ぎるだろう。好き嫌いを越えて、もう一度向き合いなおす機会でもある、と考えている。

「CGスケッチ」の(逆)効果

シャトレーゼのチョコパイを描く(制作中)

今日は一日中この2~300円台のチョコパイにかかりきり。ここまでで半分くらいまで来たかどうか。(CGの)手描きで、できるだけ自分の眼で見たまま描くことが、最近のこの“お菓子シリーズ”?のコンセプト。透明フィルムの包み紙の反射が目を傷め、「座りっぱなし」が脚の血流を悪くして睡眠障害を引き起こすのは解っているが、それがフィルムの透明感の表現に必要だと思うからどうしようもない。

手描きCGというのも変な言い方だが、紙と鉛筆、絵の具はCGだが、たとえば直線を描くツールや、グラデーションをきれいに処理してくれるツールを使わないとか、要するに「描画」に関しては、「実在の筆や絵の具で再制作可能」なことを前提にするということ。画像とその制作プロセスをデジタル情報として保存することだけを目的にしたCGによるスケッチを、わたしは勝手にそう呼んでいる。

CGだから、うまく描けるということはある。まず、「覆水を盆に返せる」。一度こぼした水はもとに戻すことができないという、文化人類学上数千年の「常識」をひっくり返して、失敗した線や色を簡単に完ぺきに消すことができる。いったん消した線を、数日(年でも)後完ぺきに復活することなど「常識」だ。他にもいろいろ有利な点はある。けれど、根本的にデッサンができない人が CGならデッサンができるようになる、という「魔法」はない。デッサン力は単なる描写力ではなく、観察力などを広く含む「総合力」だからである。絵は写真を下敷きに描けばデッサンが正確だとか、そういう次元で済むものではないのである。

けれど、たぶんCGで描く意味はそういう次元にとどまらない。描いている自分自身でさえ気づかないところに、より大きな意味があるだろうと感じるが、それが何かは今のところ自分でも判らない。1年前はCGで描くのが面倒で億劫。スケッチブックに描く方が(慣れているぶん)何倍も効率が良かった。なのに、今は完全にiPadがスケッチブック代わり。iPadに限らないが油絵や水彩同様、CGであろうと描き方、塗り方の順序を変えると難しくなったり、簡単になったりするから、時々実際に自分の「手」で描いているような錯覚に陥る。それが生きている感覚に与える影響は些細に見えて、たぶん「小さくない」。

「CGの方が良い」と受け取ってはいけない。実作の大きな利点は「失敗する」こと。CGでの失敗は、数秒でリカバリーできる。けれど、実作ではそうはいかない。失敗することで、脳だけでなく全身が活性化する。そこが「魅力」だと解るようになったのはCGスケッチの効果だ、と思う。人が「失敗から学ぶ動物」ならば、「失敗しないCG」はわたしたちを退化させる“絶好の道具”になるかも知れないですね(CGそのものはまったく否定していませんよ。念のため)。