“ノンストップ60ミニッツ”の功罪

デニッシュパンを描く (1回限り)

モチーフは手で引きちぎったパン(「引きちぎられた断面」が重要)。課題としては難しすぎることを承知のうえでのスパルタ式。水泳なら、ギリギリまで泳ぐ気力・体力があるかどうかのテストのようなものかも。“見える” “描ける”の限界まで描くと、そこに不思議に「何かが生まれてくる」ことを、わたしはなんども経験している。アップアップ状態に耐えて、初めて得られる体験。それが芸術につながる一本の糸でもあると思う。 

課題は「ノンストップで(最低でも)60分間描き続けよ」。実際は 90分以上も無言で黙々と描き続けた。挫折、飽き、諦め、などをあらかじめ想定していたのだが、そのそぶりもない、無言の集中力(他ではノンストップ180ミニッツのクラスもあった)。

2021年の「青いカモメ」最終クラス。当日1回だけの「鉛筆デッサン」。他クラスでのデッサンの話を聞いているので、デッサンはキツイ、やりたくな~い の(プチ)ブーイング(でも、やればきっと「もっと」と言い出すに決まっている、とのアマイ予想)。

「青いカモメ」のすべての皆さん、どうぞ来年また一歩、それぞれのギリギリ体験を深め、あなた自身のあたらしい羽ばたきにつないでくださるよう願っています。とりあえず、コロナに注意して、お元気で。

*ブログは(たぶん)年末までもう少し続くよ。―よろしくね。

追体験(ついたいけん)-ルーベンス

クララ:ルーベンス作
「クララ:模写」(制作中)

ルーベンス作「クララ」を再々再々模写をしている。たぶん4回くらいは繰り返しているだろう。「ルーベンス」という、世紀を超えた絵画の天才がその愛娘を描いたせいぜい6号サイズの油彩の、その模写である。脱線するが、父親というのは“娘”に関しては特別の感情を抱くものらしく、「娘」の傑作は数多いわりには、「息子」の傑作はあまり無いようだ(ルーベンスには二人の息子を描いた60号ほどの油彩画がある。長男?の顔だけを原寸大で模写したことがある)。多くは「息子本人」による自画像で、男子の場合は「自助」努力なしでは達成できないようである。母による「息子」の肖像はどうなのか、そんな研究があるかも含めて興味深いテーマではある。

本題に戻る―わたしの「模写」はルーベンスの完成作に比べると「格下の娘」だ。でも、描いているうちに、実際のクララはこんなふうな“おてんば娘”じゃなかったかなーと一瞬想像するのは楽しい。目をつぶれば若きルーベンスが、可愛い娘が少しでもじっとしているよう、なだめたりお話を聞かせたりしながら、描くべきところだけを、可能な限り素早く描いている情景が浮かんでくる。

わたしの記憶によれば、描かれたころのクララはまだ5歳。12歳かそこらでこの世を去る娘に、ルーベンス的直感で「描いておかなくては」と思ったのかも知れない(根拠は何もないが、“芸術家だから”で十分だろう)。

目的が「模写」だから、これからできるだけ上の写真(の作品)を真似て描くつもりである。見えている色の下にはどんな色があるのか。どんなプロセスで描いているのだろうか、それを文献(というほどのものでなくても)などを利用して調べ、どのくらいの力を筆に加え、どのくらいの速さで筆を動かしているのか、そんなことを試行錯誤しながら追体験していく(プロセスが大事で、似ているかどうかはあまり問題ではない)。そっくりに真似るというのは下品とかではなく、絵画の秘密を知るための「(最短の)ひとつの方法」なんです。

チョコレートは研磨材‐さくらクラブ 2

N さん

かたちを正確にとるのが苦手なNさんは、そのぶん?技法や素材研究にはひときわ熱心である。その探究心は趣味で絵を描くというより「研究者」のようだ。今回はともかくかたちをしっかり、などと言っていたが、バッチリでしょう。チョコレートもいいがグミ3個はこの人らしい研究心から。存在感すごい。

H さん

Hさんのスケッチは「原寸大」。きっちり計測して描いてある。実物は小さいので、それを原寸大で描くと、筆では描けそうにない細密なところをどう表現するかが問題になる。そこはスルッとスルーして、原寸大2枚目にチャレンジ。こだわりのナイスガイである。

T さん

なぜかIさんの絵の写真がない。確かに撮ったはずなんだが、うっかり削除してしまったかも。急遽、土曜日からT さんの絵を。T さんも自ら公言する細かい描写の苦手な人。でも、あっさり系ではなく、どちらかといえば「こだわり系」かな。それがいつも一種の迫力に至るのがこの人の個性。器用さ、ではこの重量感は出てこないのではないか。

どこにでもある題材を手あたり次第(でもないが)に描くシリーズを各クラスでやってみた。作者本人の満足度はともかく、それぞれのこれまでとはちがった新しい面が現れてきたのは大きな成果だと、わたしは感じている。わたし自身にとっても、いくつも発見があった。ダイヤモンドも、いくつもの方向から磨かれるから「宝石になる」。同じ方向からばかりの研磨ではただの板ガラスになってしまう。機会をとらえ、何度でもチャレンジしよう。