気になる絵

矢本政行「ホール」2021 行動展

行動美術協会に所属する矢本さんの絵を、少なくとも10年以上、興味と尊敬をもって拝見しています。これは今年2021年9月の行動展で発表された矢本さんの作品です。一度お会いしたいと思っていますが、まだお会いしたことはありません。

一見で、この人はヒエロニムス・ボスとかブリューゲルに強い共感を持つ画家だろうな、と皆さんが感じると思います。一つはその色彩です。もうひとつはかたちの崩し方に対する好みです。この2つが一致する画家はたくさんいそうに思えますが、実は意外に少なく、ボスやブリューゲル系の画家に絞られてしまいます。

でも、そんなことはどうでもいいのです。この絵から感じられるのは、「世の中は厳しい」というリアルなメッセージです。同心円、中央が凹んでいるという構図が「歯車のように、正確で情け容赦のない」現実の状況を象徴しています。まるで「奴隷制度」の図式化のようだと、わたしには思えます。

そんな楽しくない状況を想像しながら、色彩のストイックな美しささに引きずられて、一歩二歩絵に近づいてみると、たぶん数百人はいる登場人物の、その一人一人はどれもものぐさで(時にはパンツまでずり落ちていたり)、自堕落なポーズをしています。これを「(かすかに奪い取った)自由」と見るか、「(諦めのなかの)自由」と見るかはその人第ですが、色彩他の全体構成から考えても、アメリカ的、楽天的な自由感だけはきっぱりと排除していると思います。「自分が自由だと思っているアナタ」へ、あなたの自由は本当はこんなものかもしれないぜ、それでもいいのかい、という自問を迫る絵だとも感じるのです。

エスキース

アマゾニカのエスキース

青いカモメの絵画展が終わって5日目。もうすっかり1年ぐらい「過去」のような気がするが、気持ちとは裏腹に、展覧会のビデオ製作などが思うように進まないため、スパッと頭を切り替えて次の仕事に入ることができない。こういうのって嫌なんだよなあ。

アマゾニカという植物の鉢植えを買ったのは2年前?名前からして、いかにも熱帯ジャングルっぽい野性味に惹かれて何度もスケッチしたのに、1枚もまだ作品化できていない。こいつを青いカモメ展以後の、木立ベゴニアに続くニュー・ヒーローにしようと思い立った。

アマゾニカはかたちが単純だから、スケッチするのはごく簡単だが、「絵にする」となると、その単純さが逆に障害になる。デザイン的な面白みが強すぎて、その上に精神的な深さをかぶせていくことが難しいからだ。言葉を換えれば、日本人的感性に合わせにくいということだろうか。

エスキースとは、本制作または作図に入る前の「アイデアの整理」作業のこと。語源はよく知らないがたぶんギリシャ語だろう。このエスキース(案)では、アマゾニカのかたちはそのまま。色はグリーンを基調に彩度、明度を換えて2~3種類。アクセントに白を使おうと考えている。この「白」をただの余白でなく、きちんと意味のある表現にしたい。3種類のグリーンの配置は感覚的だが、「線をまたぐ」ことが重要だ。数日後に試作をこのブログに掲げたい。

人生の絵

           Oさんの作品「無限」2021      F30 アクリル

青いカモメ展が始まった初日、悲しい知らせが会場にいるわたしにひっそりと届いた。

5日前の午後、予定の時間よりだいぶ遅れて、公民館2階の絵画教室に彼女の絵が届いた。でも本人がいない。聞くと1階には来ているという。絵を運んできたのは公民館の職員。なんでだろうと思っていると、その人が車椅子がどうこうとか呟いた。誰が車椅子?と思っているうちに本人が来た。「階段がきつくて」登れず、遅くなったという。心臓が悪いのだ。肩で息をしている。

こんな時になんで無理して持ってくるんだ、休まなくっちゃ、とわたしは言ったが、どうしても見てもらいたかった、と言う。絵が届いたとき、最初の一瞥で彼女のこれまでで一番の絵だと思っていたので、そう告げた。「少し修正するとすればここ」と欠点とも言えないような小さな点を指摘した。でも、今やらなくてもいい、まずは体を大事にして休まなくちゃ、と付け加えたが、まさかそれが最後の会話になるとは思っていなかった。

作品の配置計画を考えているとき、わたしは彼女の絵を目立つところに置こうと決めていた。もちろんどこにおいても目立つ絵ではあったが、同じように悩みながら描いている仲間に、こんなふうにのびのび描けばいいんだよ、と彼女の絵を通じてメッセージを送りたいと考えたからだ。ある意味で、彼女は今のわたし自身の絵に対する問題の一部を肩代わりしてくれていた。線と面の関係、それらと色の関係という造形性の問題。そしてそれと「作者個人」を結び付けるという、まったく次元の異なる、でも芸術にとって避けて通れない課題に対する追及を、彼女はわたしと同じゴールを目指して進めてくれていた。たぶん、彼女自身もそう感じていたと思う。それはある意味で楽しくもあったろうが、結構きつくもあったに違いない。そして、わたしより一歩先に見事な答えを出してくれた。

残念という言葉ではたりない。時間が経つにつれてだんだん喪失感が深くなってくるが、そう思いながらも半分くらいは、まだ何かの間違いではないかという気持ちが拭い去れない。次の絵、その次の絵も見せてもらいたかった。彼女はこのブログもよく読んでくれて、時々感想も聞かせてくれた。それを聞きながら、次のブログで関連したことを書いたり、それに関わる絵を載せたことも何度かある。絵を見ると、そんなこまごましたことも含め、彼女の人生がすべてそこに描かれてあるような気がする。