“失敗”はどこ?

こりゃあ失敗作だ。でも、どこが悪いかチェックしなくては
とりあえずCGで修整してみた。「間違い探し」感覚で見てください。。

「桜を描く」と宣言したからには、と勢い込んで描いてみた。が、描いてみると「こりゃあ失敗作だわ」。そもそもスタート時点から、もっとずっと横長に描くつもりでいたのに、「スケッチブックに合わせて」集中構図にしてしまった時点で“失敗”だった。

失敗を公開するのは嫌なものだが、なぜ失敗したのか、どこが失敗で、それをどう直せば次につながるのかは、描く人にとっては“上手くいった”絵より、時には大事なことがある。

まず客観的にこの絵を見る。すると ①重要なモチーフが集中しすぎ、と最初に感じるでしょう。狭い画面に要素を盛り込み過ぎているんだよね。初心者に最もよくある失敗を、数十年の経験者(わたしのことだ!)がやっちゃってます。恥ずかし~! ②どこが悪いのかと言えば「右側の逆光の桜の枝」。全部必要ないですね。逆光の枝は左側から少し出ている。それで十分。右側はすべて「蛇足」。右側の枝を描こうとする前に、それは頭をよぎったけれど「えいやっ」とやってしまった。「なぜ、『えいやっ』だったのか」まではここでは公開しませんが。

他にも細かいところはいろいろ失敗あるけれど、ゆったりした横長にしなかったのがダメの出発点かな。横長にしていたら、②はむしろ効果的だったかもしれません。結論:スケッチブックの紙面を全部塗らないともったいないような気がしたことが、すべての失敗の遠因かも。“ケチ根性”が身の破滅、ってことかな。あ~あ。
※水彩スケッチの現物修正は3月13日(月)夜に実施し、その内容は録画しました。1週間以内に修正部分も含め、このスケッチを3月17日(金)夜にYouTubeにアップする予定です。

平凡な“Apple 王国”

Apple-海を渡る エスキース

そろそろ晨春会(6月・春日部)展用の制作を始める。展覧会は6月でも図録用写真の締め切りが4月の初めなので、3月中には作品を完成しておかなくてはならない。これはエスキース(アイデアスケッチ)。今年はこんな感じで行こうかな。昨年秋の銀座での出品作にCGで加筆している。

パソコンというのは実に便利。こんなエスキースも、あと少し手を加えれば完成のイメージができてしまう。あとは実際の材料を使って「実現」するだけ。だけど、「手で考える」アイデアはパソコンとはちょっと違う、いや全然違う。そもそも歩いている道が違うのだ。

草むらの向こうを人が右から左へ歩いているのを横から見る。平行な道があれば、横から見る限り、そのどちらを歩いているのか区別がつかない。そんな感じ。歩く人の顔の向きは同じ右から左でも、道はだんだんずれていく。たどり着く先は違うのだ。手描きとCGはそんな風に違う、とわたしはいつも感じながら、(なぜか)CGに慣れようと努力している。それが自分にとっていいのか悪いのかは判らない。「直感」という名の賭けなのだろう。

ここ2,3年の絵はこのスタイル。わたしにしては珍しく(初めて?)固定されたイメージが続いている。これまで数十年、いろんなスタイルを、いろんな材料で制作してきた。今思うのは、どんな絵を描いてもそこに自分がいるならそれでいい、ということ。個性的であろうと、平凡であろうと、それはあくまで外から目線の“気ままな”「評価」。“平凡”といわれようと、自分自身にとっては「平凡」というレッテルなど気にしている暇はないのだ。

描き直し

描き直してみた

2/3に載せた写真の元の絵がどうにも気に入らず、気になっていたので描き直してみた。前回のスケッチは10号大だったが、今回は8号にし、そのぶん下をカットしたので、顔の部分などはむしろ少し大きくなって描きやすくなった。

一枚の絵に何本も筆を使うのは油絵では常識(というより、そうしないと描けない)だが、水彩は必ずしもそうではない(水彩でも大作になると話は別になるが)。今回は「一本の筆だけで描く」という課題を自分に課したので、14号のコリンスキー一本で描けるサイズにする必要があった。

「人の顔」には細かい部分が集中しているから、顔を描ける筆かどうかが選択の基準になる。実際には“細かい部分”は顔だけではない。髪の毛も一本一本見れば細かいし、指の一つ一つの関節やそのシワだって、服の生地の織り方だって、描こうとすれば皆同じように細かい。けれど、顔以外は「鑑賞者にとって」案外どうでもいいようなところがあって、いい加減に描いてもあまり気にしない。ところが、顔だけは誰もが強い関心を持って子細に見る、だけでなく“描かれていない”気分までをも深く読み取ろうとする。だから顔が基準になるのである。

でも、わたしは顔もまた「出たとこ勝負」でいいと思っている。微妙な表情にこだわるとつい小さな筆で細かく描きたくなる。するといつの間にか、水彩本来の、水にまかせるような自由さ、気楽さが失われてしまう。造形的な試みも背後に押しやられてしまう。それよりは「目、鼻、口があればいい」的に描くほうを好む。それが“一本の筆だけで”の目的だったけれど、やはり慎重な筆遣いになってしまった(再描き直し?)。