エスキースについて(何度目かの)

エスキース1

エスキース2

エスキース1は今年 1月頃のエスキース。エスキース2は今日(8/12)。パッと見、1の方が断然いいじゃないですか?エスキース 1はモチーフどうしの関連性がまだ全然バラバラ。とりあえず、描いておくだけって感じなのに。

2はそれなりに考えがまとまってきているが、絵が説明的で全然面白くない。

スペースの使い方を比べると、1の方がずっと視覚的に合理的だと思えてくる。やっぱり絵は目で見るものなのだ。描いてある内容(モチーフ)の論理的つながりより、線の太さとか、色のコントラストとか、そういった視覚要素の力の差。

最低2つのアイデアがあって、初めてそこからエスキースがスタートする。これはまだアイデアのレベル。論理的であることと、造形要素の効果的な使い方を両立すること。そこを詰めていくのがエスキースなんですよね。

ヴァリエーション(変相)

昇仙峡(水の流れ)
川遊び
磯遊び

絵画で言うヴァリエーションとは変相、相(姿・かたち)を変えてみること。「水の(透明感)表現」を今月のテーマにする水彩画教室があったので、わたしもデモ制作として何点か描いてみた。
 1点目は実際の状況に近く、2点目はそこに子どもを置き、川辺の涼しさを体感的に表現することに狙いを変えた。3点目は川ではなく海辺まで変相を広げ、都会的な磯遊びの感覚を構想してみた。描いていると、川と海との光線の強さの違いをだんだんと思いだす。子どもの頃の感覚はこの歳になっても案外覚えているものだ。
 このような試みは多くの人が実際にやっていることで、絵画の構成力を高めるためにはとてもいい方法だが、面倒がってやらない人の方がたぶん圧倒的に多いと思う。一つのモチーフで一枚描くだけでは、常にモチーフ探しをし続けなくてはならないことになる。かつて、教室に、画面中に必ず自分自身を描き込む人がいたが、ヴァリエーションを構想しやすい、いいアイデアだと思った。

「オリジナル」という「物体」

クレマチス咲く ペン、水彩

クレマチスをモチーフ用に2鉢買った。毎年咲いていた、大輪の、ビロードのような青のクレマチスが、なぜか今年は姿を現さない。散歩しながら他所のクレマチスもチラッと見たりするが、我が家のものが一番立派だったような気がして、かなり残念。

ここ2~3年、かなりCGスケッチや動画製作に時間を注いできたので、物理的な物体として手元に残る作品数はぐっと少なくなった。CGだって作品には違いないが、長年邪魔者扱いしながらもキャンバスやスケッチブックに描き残してきた感覚からすると、なんとなく(否、かなり)物足りない感じがする。
 紙に描いたからといって感覚的には特別どうだということもない。けれど、ここに確かに1枚在るという、安心感のようなものはある。お手軽だが、とりあえずは「オリジナル」って感覚だろうか。CGでも、NFTといった「オリジナル」作品を創ることは出来るが、手描き=オリジナルという等式には(時代の意味が変わっても)今でもなんとなく頼っている。単なる世代ギャップなんだろうか。

もし、「手描き=オリジナル」という等式がこれからも不変のものであるならば、これまで数十年も苦労して辿ってきたその不変の道から、わたしは少しはぐれてしまったことになる。この歳になって、やっとCGの世界にほんの一歩だけ足を踏み入れた程度だが、その時「この等式はいずれ意味を為さなくなる」と直感し、道を踏み外すことへの小さな覚悟があったことは忘れていない。

手描きによるオリジナルも、CGによるオリジナルも、社会的にはともかく、制作者個人にとっては実際はそんなに違わないものかもしれない。それにしても、いまだに現代の絵画の値段が数億円もするという現実を見ると、オリジナル=独り占め、という人間の物欲の等式の強さをまざまざと見る思いがする。