CGかペン・スケッチか

「アフリカの夢(仮題)」 ビデオの一場面から

今日は午前中の家事と午後の教室。教室では絵画「制作」の指導。ビデオの「編集・製作」は午後7時過ぎからになった。

ビデオではペンによるスケッチの方法を紹介している。が、ある意味で矛盾を感じながらのビデオ作りでもある。

矛盾とは、例えばCG上でペン・スケッチをすれば(今やパソコン上では鉛筆だろうが、ペンだろうが、水彩でも油彩でも何でも「それなりに」、かつ「容易に」使えるのである)、別段の編集なしにほぼそのまま公開でき、しかも視聴者の視聴環境に設定をピッタリ合わせることができる。なのに、わざわざ紙やペンを買い、狭い室内を片づけて撮影スペースを確保し、照明器具も並べて電気代を浪費?。さらにその録画を何十時間もかけて編集して、わざわざ見にくいビデオでの公開をする意味。

無意味は虚無につながり、虚無と鬱は仲のいい親戚である。何とか意味を見出そうと努力するより、そんなもの放り投げて、CGだけで作るか、ビデオなどやめて、慣れ親しんだペンスケッチで、もうそんな長くない一生を楽しむか、どちらかひとつにするほうが賢明というものだろう。夢から醒めた直後、誰の声か知らないがいつも聞こえてくる。

人形

人形 (水彩)

昨日、今日と「Apple-田園」の制作を休み、昨日は国立新美術館、今日は教室とそれぞれの時間を過ごす。制作中断は絵の具の乾燥状態に合わせて。

美術館へは久しぶりどころか、電車に乗るのも久しぶり。コロナ禍下、政府とその下で医療提言を行う専門部会とやらの提言のおかげで、一定の医療破綻は免れたらしい。一方で、過度の「外出自粛」ですっかり滅入ってしまった精神状態と、「移動・集合の制限緩和」というブレーキとアクセルを交互に踏むような政策による解放感とのあいだで、一種の分断が起きてしまっているようにも見える。

体長20㎝ばかりの、外国製の人形。その頭部の水彩スケッチ。十年以上前、誰かに頂いたものであることは間違いないが、書いてあるスペイン語のほかの情報はすっかり忘れてしまった。人形は漫画と似て「目が大きいのが決まり」だが、この人形の眼は一般の人間サイズ。しかも(「ぷっくり」というより)「ちょっと太りすぎでは?」というところが、妙にリアルで気に入っている。

Apple-田園。明日から「胸突き八丁」

Apple–田園 (9/22終了時)

今日は午前中教室。みんなあちこち身体的不調があったり、お彼岸だったりするのによく来てくれた。わたしは地元の人間ではなく、お墓もお寺も縁がないのでそんなこと頭にも浮かばず、絵のことだけ考えて教室へ行ってしまった。

作品は20日から始まったのに、今日(9/23)でもう前半戦は終了。ここまではエスキース通りでよかったが、ここから先は一瞬の判断、一瞬のひらめきが作品の出来を左右する「胸突き八丁」。期間は判らない。創作の醍醐味はまさにそこにあると思うのだけれど、画像(映像)的には、伝える主体(わたし)自体が瞬間、無意識的だし、仮に専属カメラマンがいたとしてもその瞬間を共有できないなど、視聴者までの間に幾瞬間のあいだに何層もの遠い隙間ができて、結局何も伝えられないもどかしさだけが残る後半戦になる(と思う)。が、それを逐一報告することは(したくても)無理。多くのメディアが「(各作家の)その瞬間」を捉え、伝えようとしたが(わたしもビデオを製作する側になってよく解ったが)、今現在のメディアのレベルでは、それはかなり希望的なレベルのことだと思っている(でも、テクノロジーの日進月歩には期待)。

写真は今日(2022.9.22)の「終了時」。下辺左右には余った「ゴールデンイエロー」。貴重な色材だが、鶏卵で作った「生もの」絵の具なので数日間の保存をあえてせず、もったいないゆえに塗ってしまった。画面4分の1より下は「エスキースの未熟さ」が露わになってしまった。大切な部分なのになんとなく曖昧にごまかしていた。やっぱり批判がなければぬるま湯に浸りやすい-ですね。ぼちぼち絵の具の乾き具合も考えて、明日から1~2日は(大事な部分に)加筆せず放置しておく方が良さそうだ。その間にだってエスキース、小品制作、美術展(個展)回りくらいはできるし。