This is my best work, now.

出品作「Apple-田園」 F100 テンペラ

「風土に生きる Ⅸ展」(10人の作家グループ展、銀座・ギャルリー志門. 10/17~10/22)への出品作です。直前になって何かモニョモニョと不安になり、一部だけ加筆しました。後で見ると、ひとつも良くなっていない。やっぱり筆を擱くタイミングってあるんだね。

大作画面の下部って、誰にとっても描きにくいところです。しゃがんで描いても、寝転がって描いても、テーブルの上に水平に置いて描いても、描きにくい位置なんです。だからほとんどの絵は画面の下1/4~1/5は破綻なく収めるためのクッションのようになっているものです。左下の葉っぱはまさにクッション。そうしたくはなかったけれど、このタイミングでこのスペースでは、他に何のアイデアも出てこなかったのです。写真はその部分を描くため、テーブルの上に絵を(縦に)載せた状態です。

10人のグループ展ですから、会場ではそれぞれの絵が主張し合います。見る側からは、そのぶつかり合いがグループ展の真骨頂ということになるのでしょうが、描く側から言うと、皆さんもうベテランなので、そんなこと実はどうでもいいのです。悪い意味ではなく、それぞれが「不可侵」の自分の絵の世界を持っているということでしょう。それが世間とズレていようと、構わず突進するという其々からのシグナルです。グループ展の絵を見るとき、そういうことを頭の片隅に置いておくと、案外に作家からの素直なシグナルが受け取れるかもしれません。

10月17日(初日)、19日(中日)、22日(最終日)は会場にいる予定です(ちょっと遅れることがあります。ゴメンね)。腰の具合が悪く、歩行困難な時は休むかもしれません。その時もゴメンね。

スケッチ:手描きとCG

ふるさとの川を描く2

ふるさとの川を描く3

「ふるさとの川を描く」2,3は数日前に撮影が終わり、時間が取れ次第ビデオ編集にかかる予定です。来週中にはどちらかをYouTube にアップしたいと思っています。編集作業がもっと手慣れてくるといいのですが、いまのところは一生懸命やっても全てにおいて非常にノロい。

「青いカモメ絵画教室」では、千葉県野田市で来月スケッチ会をする予定です。その際に水平線の探し方、位置の決め方などスケッチの参考になるようにと、「川」とは別に5本の動画を撮影しました。ノロノロのわたしですが、少なくともそのうちの1本は今月中にアップしたいと考えています。ご期待ください。

YouTube の「青いカモメの絵画教室」は昨日視聴3000回を越えました(パチパチ)。最初の1000回までに10カ月、2000回までに2ヶ月、3000回までに一カ月半、とだんだんペースが上がってきています。数字の魔力というか、数字に励まされるというか、もう少し頑張って続けようという気持ちになることは確かです。いわゆるユーチューバーの人たちの、1日で数万回というのに比べるとまさに月とスッポンですが、「千里の道も一歩から」。とりあえず「最初の一里」を目標に、半歩ずつでもいいから進めていけたらいいなあ、と思っています。

絵はフェルトペンで描いたものですが、これくらいなら実はCGでも十分に描くことができそうです。単純にリアリスティックというなら、CGの方がさらにグレードを上げることが可能です(スピードは慣れのせい?で、今のところは手描きの方がCGより10倍早い)。でも、YouTubeから感じるのはやっぱりCGより手描きを見たいんだなあ、ということ(わたしの場合だけかも知れませんが)。何かホッとするものを感じながらビデオ編集を続けています。

不要なものは不要ではない

17年前のブログから

17年前はブログ(当時はホームページと言っていた。2代目のホームページ。現在のブログ「青いかもめ」は3代目にあたる)にこんなのを書いていました。懐かしい。そして今もその気持ちは変わらない。

ブログも最初はスケッチブックに描き、それをスキャンしてからアップしていた。寝る前に書くブログは時に面倒でもあったが楽しかった。2代目はパソコン上で描いたものが多くなった。現在のブログは3代目にあたる。

わたしのパソコンの先生は、彼が幼稚園児の時からずっと息子。まだひらがなも読めない時に、”press any key ” を「これはどれかのキーを押せばいいってことだよ」とわたしに教えてくれたのには驚いた。パソコンをあちこち触りながら、文字と操作を結びつけたのだろうが、その洞察力の凄さに驚いた。ローマ字を教えたらあっという間にローマ字入力をするようになった。

こういう手作り感のあるブログはいいものだ、とあらためて思う。例えば文字も絵も確かに「情報」でもあるけれど、手書きの文字には「不要な情報」がぎっしり詰まっている。不要な、とは例えば意味の伝達という意味では文字の硬軟や微妙な掠れなどは不要な要素にあたるだろう。けれど「○○さんの字」という意識から見ると、それは不要どころか、それが本質でさえあり得る。「旅」と「旅行」は違うという人がいる。目的地までの時間は短かいほどいい、と価値観が一辺倒になるのは寂しい。絵を描く原点もきっとそこにある。