不要なものは不要ではない

17年前のブログから

17年前はブログ(当時はホームページと言っていた。2代目のホームページ。現在のブログ「青いかもめ」は3代目にあたる)にこんなのを書いていました。懐かしい。そして今もその気持ちは変わらない。

ブログも最初はスケッチブックに描き、それをスキャンしてからアップしていた。寝る前に書くブログは時に面倒でもあったが楽しかった。2代目はパソコン上で描いたものが多くなった。現在のブログは3代目にあたる。

わたしのパソコンの先生は、彼が幼稚園児の時からずっと息子。まだひらがなも読めない時に、”press any key ” を「これはどれかのキーを押せばいいってことだよ」とわたしに教えてくれたのには驚いた。パソコンをあちこち触りながら、文字と操作を結びつけたのだろうが、その洞察力の凄さに驚いた。ローマ字を教えたらあっという間にローマ字入力をするようになった。

こういう手作り感のあるブログはいいものだ、とあらためて思う。例えば文字も絵も確かに「情報」でもあるけれど、手書きの文字には「不要な情報」がぎっしり詰まっている。不要な、とは例えば意味の伝達という意味では文字の硬軟や微妙な掠れなどは不要な要素にあたるだろう。けれど「○○さんの字」という意識から見ると、それは不要どころか、それが本質でさえあり得る。「旅」と「旅行」は違うという人がいる。目的地までの時間は短かいほどいい、と価値観が一辺倒になるのは寂しい。絵を描く原点もきっとそこにある。

リンゴ園の青い空

りんご園の青い空 (CG)

 100号のアイデアを小品用にアレンジしてみたが、さすがに単純に小さくした部分は細かくなり過ぎる。小品と大作では、作品に対面する距離感が全然違う。距離が違えば見る(見える)ものが異なる。モチーフが同じでも、サイズ(距離感)にふさわしいメッセージにしないと、伝わるものも伝わらなくなる。

斎藤典久さんの個展に行ってきた。アイルランドのアラン島という島に、もう30年以上通っている。その島自体に染みこんだ時間を絵画にしたいという。彼の絵を見ると、画家というのは歴史家であり、風土史家であり、地質学者であり、地政学者であり、気候学者であり、ペシミストであり、同時にオプティミストでもあるのだと思う。そしてそのうえに「絵の具を扱う専門家」。

今日上野の西洋美術館で「ピカソとその時代」展も見てきた。パウル・クレーの作品も思ったよりたくさんあった。わりと小さな作品が多かったせいで、これまで見たことのない作品が多かった。発表用の大作と違い、小品は一言でいえばビジネス用でもあるし、トレーニング用、研究用でもある。そこには作家の、大作に表現されるものとは別な一面が現れる。小品を見ると、ピカソの“意外な” 繊細さ(まじめさ)が感じられた。

しかし、何にせよ、今は絵を描くことが難しい時代だと感じる。無心に、平静に、楽しく絵に向かうことができない時代だ。マスコミ用語では「時代を超える」などと簡単に言ってしまうけれど、生身の人間にそんなことなどできるわけがない。たまたま、無心に、平静に、楽しく描けてしまったとき、タイムマシンに引っさらわれたように、結果として越えてしまうことはあり得るとは思うが。

とりあえず終了。「Apple-田園」

Apple-田園 (テンペラ:とりあえず終了)

今年6月のグループ展・晨春会展に出品した「Apple-田園」とおなじ題名で方向性も同じ。前作よりはちょっと進んだ気がしています。

①明快なイメージ(可能な限りぼかしや思わせぶりな表現をしない)②「線と面」の多様性を深める ③できるだけ彩度の高い色でのバランス という造形本位の作品を創ることが狙いです。いくつかは発見もあったが、解決法が見つからない部分はそのまま。

10/17(月)から銀座・ギャルリー志門で開かれる「風土に生きる-Ⅸ展」への出品予定作です。8月中には仕上がっているはずだったが、ほぼひと月ぜんぶの時間を腰痛で失ってしまった。その間にエスキースを十分にやれば何とか埋め合わせはできると考えていたが、気力も弱まり、十分に詰めることができないまま9月に入ってしまいました。

間の悪いことに、今回はパネルで制作。キャンバスよりはるかに重い。まず地塗り、下塗りで床に水平に置く作業がせっかく治りかけた腰痛を再び引き出す。制作中は何度も作品を逆さまにしたり水平にしたりするので、そのたびに心配になります。それでもまあ、予定通りほぼ1ヶ月で終了までこぎつけられたのは良かったが、9月中の展覧会、個展などはほぼすべて失礼してしまいました。このほかに小品1点を出品します。