「T」の構図

T の構図

絵画の話。昨日のブログに載せた絵を例にすると、上の画像のように「T」の構図を意図的に作っている。Tの縦の棒を左右にずらす構図もよく使う。わたしの好きな構図の一つである。

なぜこんな構図が好きなのかをちょっと考えてみると、わたしのへそ曲がり具合が反映されているらしいことはすぐわかる。ある意味、構図はその人の性格や考え方、感じ方も暴露してしまうのかもしれない。

T という字形は不安定である。それを好むということは、不安定を好むということでもある。わたしは“抵抗分子”かも?絵画でも、まずは「安定した構図」を基本とする。初めから不安定なのは、基本を知らないか、(身体の)どこか悪い可能性がある。安定構図の代表は「山」または△(三角形構図)と呼ばれる“どっしり”型。山の頂上、三角形の頂点を少しずらし、ほんの少し動きを加えて使うのがオーソドックスなやり方だ。

Tや▽の構図は不安定感そのものが目を引く。だから、モチーフもそれにふさわしいものが選ばれやすい。それがここでは“超”保守的なモチーフを描いているぶん、二重に反抗的だろう。そういうへそ曲がりさがこの構図に見えている―そしてこのような感覚はあらゆる世界に広がっている―こんなふうにわたしは絵を見ているのです。

藤澤伸介個展②:画家としての彼

①個展案内状:地図まで手描きすることも多い
②四角の画面でないからこそ視覚も躍動する

 

③紙を切る前に色を塗っている。そこがすごいところ

先日紹介した「藤澤伸介個展」への追加。前回のブログでは「画家としての藤沢伸介」にはスペースの都合で触れなかったが、わたしだけでなく多くの絵を描く人にとって示唆に富むと思い、以前からそのことについて書く必要を感じていた。

①彼の個展案内状はいつも手描きふうだ。地図も手描きであることの方が多い。たくさんの画家からたくさんの個展案内状を頂くが、描くのが仕事であり、描くのが何より好きなはずの画家たちからの、このようなものはほとんどない(わたしがする場合も含めて)。「絵を描くのが好きだよ、楽しいよ」と、案内状で最も大切な内容をこれ一枚できっちり示している。読むのではなく見る案内状であり、まず第一歩からして絵画的だ。

②絵はキャンバスに描くものと思いこんでいる人はさすがにもういないだろうが、浜辺の砂に描いた絵だって、空中に指先で描いた絵だって絵なのだから、これは当然過ぎるくらい歴然とした「絵画」形式。でも、そういう理屈は置いといて、この、一見「子どもの切り紙」ふうの「見せ方」が、じつは彼の隠された自信、タダ者じゃないとわたしは感じる。「現代絵画」はよく解らない、と多くの画家や評論家たちでさえ内心は感じていると思うけれど、この簡潔な表現そのものがまさにそれではないだろうか。画廊を出て、一歩街へ出てみるとそれがわかる。

③(文才があれば)この絵一枚で一片の小説が書けるハズ。ここには彼の作家としてのこれまでの人生が(軽々しく言ってはいけない言葉だと思うけど)詰まっている。中央のカエルに描かれた色や線は、カエルのかたちにカッティングされる前に施されている。つまり、カエルのかたちになるかどうかすら分からない時点で塗られた色、線だ。それを最終的にカッティングして、こんなかたちに「なりました」って、偶然と必然を一瞬で融合させるその凄さが、わたしの想像を超えるんです。そしてそれこそ「絵というもの」だと、わたしの胸は震えるんです。

藤澤伸介展:作家と道具の深~い関係

個展会場から
出品作品から:2つの紙の切り方を見る
出品作品から:かたちをなぞる「切り絵」ではなく、切ることと描くことが融合する

包丁を持つと人格が変わるとか、ハンドルを持つ(運転する)と性格が変わるということは、冗談半分の話として時々口の端に登ることもある。けれど、わたしたちは常に自分が主体(上位)であり、自己の意志のもとにモノや手段(下位)を遣っていると教育されてしまったから、せいぜい笑い話レベル程度以上には扱われない。

けれど子どもの頃、ハサミを持ったら何でもチョキチョキ切りたくなったり、シャベルを持てばそこらじゅうを穴ぼこだらけにした経験は誰にでもあるのではないだろうか。切りたくなったからハサミを持ち出したのではなく、シャベルを持ったから(用もない)穴を掘りたくなったのではなかっただろうか。

アーテイスト(こういう呼び方は好きではないが)の多くは、そういった子ども時代のハサミやシャベルを一生涯手放さない人々のことでもある。一見ただの道具でも、年月を経てそれに習熟し、腕を磨き上げればそれらはとんでもない武器に変身する。というより、本来の姿を現してくる。それが藤澤さんのカッターだ。

あまりにも使いこんでいるために、ごく自然に彼自身がカッターになりきっている。こんなふうにカットしようと考えているのではなく、気づけばもう切っていた、そんな感覚。そうでなければ無駄のない鋭い「かたち」など生まれ得ない。極めて数学的な線でありながら、どこかに子どものような脱線の遊びを含んだカッティング。彼はもともと彫刻家だが、木を削る時には鑿(のみ)そのものとなり、時には粘土を付ける箆(へら)にもなる。画家でもあり、時どき筆になる。Cutter(切る人)でもあり、詩人のときは可愛い一本の小枝にもなる。フツーのようだが普通ではない。(下北沢:ギャラリーHANA)

※「切り絵」ではなく「切り紙」であることに留意してくださいね。