描き直し

描き直してみた

2/3に載せた写真の元の絵がどうにも気に入らず、気になっていたので描き直してみた。前回のスケッチは10号大だったが、今回は8号にし、そのぶん下をカットしたので、顔の部分などはむしろ少し大きくなって描きやすくなった。

一枚の絵に何本も筆を使うのは油絵では常識(というより、そうしないと描けない)だが、水彩は必ずしもそうではない(水彩でも大作になると話は別になるが)。今回は「一本の筆だけで描く」という課題を自分に課したので、14号のコリンスキー一本で描けるサイズにする必要があった。

「人の顔」には細かい部分が集中しているから、顔を描ける筆かどうかが選択の基準になる。実際には“細かい部分”は顔だけではない。髪の毛も一本一本見れば細かいし、指の一つ一つの関節やそのシワだって、服の生地の織り方だって、描こうとすれば皆同じように細かい。けれど、顔以外は「鑑賞者にとって」案外どうでもいいようなところがあって、いい加減に描いてもあまり気にしない。ところが、顔だけは誰もが強い関心を持って子細に見る、だけでなく“描かれていない”気分までをも深く読み取ろうとする。だから顔が基準になるのである。

でも、わたしは顔もまた「出たとこ勝負」でいいと思っている。微妙な表情にこだわるとつい小さな筆で細かく描きたくなる。するといつの間にか、水彩本来の、水にまかせるような自由さ、気楽さが失われてしまう。造形的な試みも背後に押しやられてしまう。それよりは「目、鼻、口があればいい」的に描くほうを好む。それが“一本の筆だけで”の目的だったけれど、やはり慎重な筆遣いになってしまった(再描き直し?)。

in put, out put‐Nさんの試み

「石1」Nさんの水彩
「石2」Nさんの水彩
「石3」Nさんの水彩

一般的に入力、出力と遣われる語だが、少し考えてみると put という単語がちょっと意味深に思える。put=置く、というのだから、置くモノが要る。モノだからin⇄out と移動すれば、それぞれ元の場所には無くなるわけだろう。

in put は自分の勉強(時間)、out put はその成果を発信すること(かなり恣意的なつなげ方だと思うが)と、考えれば、勉強(情報収集)は「アイデアの芽」もしくは「種」であり、それが「実」になるまでには一定の年月、経験が要る。それが数カ月なのか数十年なのかはモノにも、人にもよるだろうが、いずれにせよ熟すまでの時間が必要だということだ。

ごく普通に考えても、バケツの中にあるモノを外に出し続けるだけならば、すぐにバケツは空になる。「断捨離中」なら嬉しいが、それが精神的なモノであっても、出し続けていればいずれは空になる。「競争に打ち勝つ」ための「発信力」が強調されがちな昨今、有り余る内容を持っている人や会社、事業体などはいいが、特に何もない人、ところだと、発信する内容を「泥縄的に」作りながらやらなくてはならないこともあるのではなかろうか(「泥縄」なんて、すでに死語ではあるまいか?泥棒を捕まえてから(縛るための縄をなう)という、「準備不足」を戒める言葉。念のため)。

わたし自身が、ずっと前から「これじゃ泥縄だな」と感じていた。インプットとアウトプットの間隔が「即」なだけではなく、逆になるほうが多くなってきたからである。―「青いカモメ絵画教室」のNさんの習作「石1」~「石3」を見ると、Nさんが「インプット」している様子がビンビン伝わってくる。情報を仕入れるだけがインプットではなく、それを自分の中で揉み込み、発酵させているのがよく解る。「発信」が目的ではなく、結果であるという王道の歩みかたを見てほしい。Nさんの「石」はすでにかれこれ数年に亙る。

モチーフ(制作の動機)

シンクの水滴

絵画で何を描くか。小説で何を描くか。音楽で何を描くか。記者が何を記事にするか。政治家がどんな社会を描こうとするか・・・対象はバラバラ、雑多なように見えるがカクテル光線のようにいろんな波長の光が重なって、そこが立体的に浮かび上がって見えるところがきっとある。

皿洗いはわたしのルーティンのひとつ。食器がシンクに溜まっているのがタマラナイ。坐りっぱなしの生活時間が長いから、脚の血行回復のために、時どきは立つ(stand up)必要がある。ぼんやり立って、踵上げくらいの運動でもいいらしいが、それと皿洗いを合体させた。英BBCの人気番組に“キッチンでダンス”というのがあるらしい。中身を子細に見たことはないが、要は“皿洗いを楽しいダンスの時間に”ということのようだ。リズムよくお尻を振り振り、食器洗いが健康にもなるという発想はわたしと同じ。皿を洗いながらわたしも開脚したり、腰をひねったり。洗う食器や鍋の量が少ないと、かえって運動不足になりそうな気がしてくるから習慣はおソロしい。

そして毎日見るのがこの「風景」。毎日見ているようでも、二度と同じものを見ることは出来ない。事実も真実もここにはすべて在る。絵画、小説…社会、政治などの、どの分野にも深く重なっている。定点観測のように、これを毎日毎回写真に撮るかスケッチしたら、きっとドエライものが出来ると思いながら、いまだに一枚も(最低1枚は撮った)撮らず、スケッチもしていない。―特別なモチーフを探す必要などどこにもなく、こうやってごろりと目の前に転がって、わたしを下から窺(うかが)っている、のだった。