制作中

Apple-海を渡る(部分・制作中)

数日ぶりに夕方まで制作できた。だいぶ派手派手になってきたが、まあ、こんなもの。ふざけていると思われるような絵だが、一応まじめに考え、適度な荒さを失わないように気をつけながら、の制作です。

ここでは見えない(見せない)画面下部は遅れている。なぜかというと、画面の下の方は姿勢的に描きにくいからだ。アトリエは天井が低く、画面を上にあげるとすぐ天井にあたってしまう。かといって寝そべって描くのも大変。だから下の方を描くとき、最近は水平にして描くことが多い。

以前は直接床に置いて制作もしたが、今は机の上に置く感じで、できるだけ中腰にならないようにする。が、やはり中央に近いところを描くときは手を伸ばして、中腰にならざるを得ない。なので、ついつい上の方ばかり進み、バランスの悪い絵になりがちだ(と思う)。

ポスターのような絵だが、確かにイメージもそれに近いかも知れない。あと数日で図録用の写真を撮らなくてはならない。未完成でも、なんとか見られるところまで漕ぎつけないといけない。浪費が多すぎるのか、いつも時間が足りない。

絵画―「明るさ」をつくる

薔薇を包む(水彩) F6

「明るい花を描く」には、明るい色で塗ればいいのでしょうか。それとも隣に暗い色を置けばいいのでしょうか。―正解は記事の最後にあります。

「明るい・暗い」は相対的な「感じ方」の問題です。同じ花でも、周囲が暗ければ明るく見え、周囲が明るければ花は暗く見えます。絶対的な明度を示すときは、例えば「マンセル色彩体系の中での3.5」とか6.0というふうに示します。物差しがあれば測れるのです。

「相対的」という意味は、「二つをくっつければ判る」ということです。離れていたり、あいだに別の色がはいったりすると「相対的」の意味が失われてしまいます。A、B、C、Dの4つが隙間なくくっつけば、1~4番までの序列をつけることができます。その差も解ります。「くっつける」ことが大切なのです。
 でも、現実の絵画では、離れた位置での比較をする必要が頻繁に出てきます。写真を撮って、それをパソコン上で比較するだけなら、まだしも簡単ですが、現実の制作中ではそうもいきません。それぞれのパーツが周囲との「相対的な」差別化」を生みだしてしまっているからです。そのうえ、そのことを理解している人でも「 99.9%」 の人はそれを「無視」します。“面倒くさい”からです(わたし自身も数年前までそうでしたが)。けれど、それはそれは自分の絵が“絵画”であることを否定しかねません(理由の詳細は省略します)。

 同じ色(明るさ)なのに明るく見えたり、暗く見えたりするのは一種の錯覚です。錯覚は脳の「正常な」働きが引き起こします(「正常」です。ご安心)。絵画という芸術表現は、眼から脳を刺激し、ある種の錯覚を意図的に引き起こすことで成立するジャンルですが、「どのように(脳を)刺激をすれば、どのような錯覚・衝動・行動を生むか」は、今や世界的な最先端の研究テーマだと言っていいでしょう。その簡単な参考例をちょろちょろっと(インターネットで)見るだけでも、意外に応用できるようになるものです。

※正解は、「隣に暗い色を置く」です。

YouTube から気づいたこと―わたしの場合

黄色い花のスケッチ(水彩)

昨日(3/28)、教室でデモ制作したスケッチです。これを一回の講座時間内で描き上げるのはなかなか難しいと思います。教室の人たちも結構焦りながら(かつ、のんびりと)描いていたようです。

教室の人たちは皆さんベテランなので、当然のようにすんなり描き始めますが、初心者でいきなりこれを描けと言われたら、とたんに固まってしまい、おそらく手も足も出ないでしょう。教室では何十段ものステップを積み重ねてきていますから、本人の満足度を別にすれば、とりあえず、これに近い状態まで描き上げることができました。

こんな複雑なモチーフを短時間で描けること自体、すでに初心者とは言えないレベルであることを示していますが、それなのに油絵や他の教室の人たちも含め、「自分はちっとも進歩していない」「いつになっても初心者レベル」と、どうも思い込んでいるようなのです。理由は「遠近法がよく理解できていないようだ」とか「骨格や表情の表現がうまくできない」からなのでしょう。確かにそれらの一つ一つは乗り越えてほしい課題ですが、全体として見れば、ある程度描きたいものは描けるようになっています。常に上を見る、上達への志向性と、「自分はまだまだ」と自信を持てないこととが裏腹になっているのですね。

最近、YouTubeをやって気づいたことはたくさんあるのですが、そのひとつが今述べたことです。YouTubeへのアップに力を入れ始めて半年、視聴者はずっと増え続けましたが、ここ1~2ヶ月はどんどん減っています。決して手抜きではないし、内容が悪いわけでもない。とすると、どういうことなのか?送られてくるデータをもとに考えてみました。
 ひとつの仮説―内容が難し(高度)過ぎる。
 ビデオを企画するとき、頭の中に教室の人たちのことを思い浮かべます。そして彼(女)らが次のステップに進む助けになるように作ろうと考えます。一方、YouTubeは基本的に上昇より間口の広いことがプラスに働くようにプログラムされています。日本人の多くの人は自分の実力を過小評価しがちです。中級どころか、上級者でさえ「自分はまだ初心者」と考えているのです。もちろん謙遜もあるでしょうが、少し自己肯定感のバランスが行き過ぎではないでしょうか。ともかく、そんなわけで、初心者以上のレベルを想定すると、間口がぎゅっと縮まってしまうのではないか。そんなふうに感じています。視聴者が増えていた時は、わたしもYouTube初心者だった(それは今もですが)ので、「初心者」とある意味で波長が合っていたのでしょう。