リテラシー

写真(YouTubeサムネイル)を見て。この、ブルーっぷり。ブルル、こんな陽気だっていいうのに寒気がするようなサムネイル。なんで、こんな陰気な動画なっちゃうのかと、自分でも悩むんですね。

誰も見てくれなくてもいいから、「自分は自分の仕事を全うしたい」と思うとこうなっちゃうのかな。「けじめをつけなくちゃ」と思ってるんだね、それが「昭和世代」の特徴だと言われるけれど。で、(肝心の)ケジメがきちっとつけられたか、って訊かれると「よくわかりません」っていうんだからどうにもならないサ。

それぞれの分野への適応能力を「リテラシー」というらしい。たとえば「情報」分野なら、情報への興味、関与の程度、適応能力など。だから、同じ「リテラシー」でも、「世界のセレブとの交際リテラシー」なんかの“能力ゼロ”でも、わたし的には全然困らないが、ワクチン接種だの、国や自治体への申請だのがインターネット経由だと、一定の「リテラシー」がないと、市役所へ行ってイライラと職員を怒鳴ったりする羽目になる。

そういうわけで「スケッチのリテラシー」らしきものを身につけさせたい(上から目線か)という(わたしの)願いは、現代の情報リテラシーという見地からは、“著しく”逸脱・時代遅れになってしまっている。現代ではデッサンの修練などより、カメラの勉強、をし、プロジェクターでも何でも使えば、いかに写実的なデッサンでも、誰にでもできる道が開かれている。それを文明の発達というんじゃないの?そ、その通りだね、うん。
 「シルエットから描く」なんて、タイトルがすでに、自ら時代遅れだって宣伝して回っているようなものだった。もっと情報リテラシーを身につけなくちゃだめですね。あ~あ。時間がないと言いながら、こうして意味ないことに時間も体力も浪費してしまっているんでしょうか・・。

よくあるミス

anemone 水彩 F8

12:40、あっ、いけねぇ、と思ったが、もう日をまたいでしまった。奇数日にブログを書くことを今年の目標にしていたが、すでに2回目のポカ。記事はすでに書いてあり載せるだけにしていたが、公開予約の方法が分からず、「まあ、時間に余裕があるから」と安心していたのが良くなかった。

おかげで記事も新規に書き直すことに。写真の水彩は、背景をどうしようかとひと月ほど放ったらかしているうちに最初のアイデアを忘れてしまったので、適当にまとめてしまった。人形の髪の毛の表現をどう“手抜き”しようか、そのテストのためだけに描いたものではあったけど。

眺めていると、色のバルール(ボリューム感。膨張感)の問題がよく解る。解説すると、アネモネが人形より手前にあるのは「論理的に」理解できる。一方、「視覚」の問題としてだけ見ると、花が奥にある白い鉢?と繋がって、人形をぐるっと取り囲むかたちになっている。そして白っぽい=「彩度が低い」。そのため、奥の鉢は自然な距離感に見えるのに対して、アネモネの方は人形より引っ込んで見える。これが“バルールの問題”である。※バルール(valurue)はフランス語で「価値、容積(量)」などのことで、英語のヴァリュー、ボリュームに近い語。

“明るい-暗い”の単純対比なら明るい色が手前に見えるが、“明るい-高彩度”ではそう単純ではない。“明るい・低彩度-暗い・高彩度”や“明るい・高彩度-暗い・高彩度”などなど、何通りかの組み合わせができるからだ。この場合は、“明るい・低彩度-暗い・高彩度”の例で、「明るさ」に「高彩度」が勝っているから、この現象が起きる。
 正しいバルールにするには、①花を白ではなく、鮮やかな色にする、②人形を暗く、または低彩度にする、のどちらかまたはどちらも、を実行することになる。一個のアネモネが実際に髪の毛の奥にあることも、その錯誤を強める結果になっているが、その意味が解りますか?
 こういう「造形の基礎」的なことも、言い方は「基礎」だけれど、実際はかなり奥の深いものです。そうした知識・理解を活かせるようになると、絵がとても豊かに見えてきます。可能な限りそういう時間を作って、知識をインプットするようにしたいものですね。

AI と技術・感性

Apple-海を渡る(部分・制作中 04/03)

絵は上手にならなくていいと、わたしは何度も言ってきたし、実際にそう思っている。画家の中にもそう思っている人は少なくないと思う。

けれど、ネットを見ていると、むしろ細かい技術ばかりにニーズがあるように見える。「〇〇の描き方」「〇〇の使い方」のようなコンテンツの視聴率が高い。これが実際のニーズを反映していると思うか、チャットGPTに聞いてみると「ネットでのニーズが実際のニーズかどうかはわからないし、ネット上でもそれが本当のニーズではなく、単なる興味本位、好奇心だけであるかもしれない」云々。でもまあ、ネット上では少なくとも「技術」「ハウツー」「エンタメ」に興味が集中していることは確かだ。

「絵画(芸術)は技術だけでできるものではない」と謂われ、わたしもつい最近までそう思ってきた。だが、直近のAIの進歩を見ると、人間が「技術だけでないもの」をはたして判定できるのかが心配になってきた。「人間が望む『感性』も(数秒で、いくつでも)与えてくれる」ことが明らかになってきたからである。「自分の感性」などと言っているうちに、「AIに教育された感性」を自分固有のものだと思いこむ状況になりはしないか。

技術も感性も、方法は異なるが磨くことはできる。技術の方が磨きやすいが、いずれはどんな技術もAIに追い越されるのは確かだ。感性はどうだろう。いまのところAIは人間の域には達していないらしい。AIの登場で人間はいずれ仕事をしなくなる(できなくなる)。感性を磨かない人間はどうなるのだろうか。絵はだいぶ進んできた。考えがまとまっていないところがまだ少しあるので、やはり締め切りギリギリまでかかるかな。