ゼラニウムの構図

「ゼラニウムの構図」習作 水彩 F8

「構図」という言葉は美術の用語ではなく、一般用語だ。けれど、「構図ってなんですか?」と訊かれると、なかなかパッと一言では答えられない。パッと説明できないものはよくわかっていない証拠。「構成」の方がずっと説明しやすい。

「構図」の方が抽象的、かつ「文学的」だ。だから、題名にはよく使われる。赤の構図、青の構図といえばすぐ小説などを思い浮かべるし、貧困の構図とか○○金脈の構図などと言えば、ノンフィクションやジャーナリズムを想像する。この場合の「構図」は、かなりムード的なもので、ほとんど具体性がない。絵画での「構図」ならもっと具体性がありそうなものだが、こうした流れを絵画も引きずっていて、せいぜい大雑把に数本の線を引いて、「対角線構図」だの「三角形構図」だのと役に立たないことを口走っているに過ぎない。

「構図」には色の話など全然出てこない。絵画なら、もっぱら画面上でのモチーフの配置と、一歩引いてみた時の線的な効果だけに留まる。その点、「構成」となれば、色の対比、かたちの対比はもちろん、視覚的なあらゆるものが具体的、詳細に、論理的に吟味、検証されうる形式で記述される。絵画では「構成」という語の方がふさわしい。

けれど「ゼラニウムの構成」と「ゼラニウムの構図」では、すくなくともこの絵では「ゼラニウムの構図」の方がいい、と思う。先に述べた「文学性」と重なるところもあるが、「構図」には作者の主観性が滲みでているように感じるから。この絵では、モノの配置や板の並び方などわざと微妙な角度に「構成」している(水平線は一本もない!)。けれど、そういう論理的なものを越えて、画面というものに対する「わたしの主観・好み」といったものが漂っている。それを意図するならば、「構成」という言葉ではどうも包括しきれないような気がする。だから「ゼラニウムの構図」なのである。

薔薇の「練習」

薔薇のデモ制作(水彩・F4)

今朝(2023.04.13)、ラジオからJアラートの警報が全国に響き渡った。「北朝鮮からの弾道ミサイルと思われる物体が北海道に向けて飛行中。午前8時頃に北海道に落下する模様。ただちに避難してください!」。運転中だったが「頑丈な建物、または地下鉄、地下室などへ避難」と具体的だったので、本当かと驚いた。

結局、岸田首相が「我が国の領域内に落下していないことは確認している」で終わり。途中までは飛行物体は2個あるかのような発表もあったが、それもなかったことに。

これは防衛予算を大幅アップしたことを国民に納得させるための(一部)フェイクニュースではないかと、疑った。ここ数日、盛んに報道されている陸自の幹部を乗せたヘリコプターが墜落した事故についても、一時は「中国軍云々」の話も出て、いくらなんでもそれはないだろうと思ったが、その時もその話の出どころは防衛予算絡みのところからではないかと想像した。 
 今回のミサイルに関する警報を、防衛省が本当にそう信じていたのだとすれば、それはそれで航跡の計算が実に幼稚なレベルにあることになり、果たして「敵基地攻撃能力」など持たせていいものかと心配になる。早まって、ありもしない攻撃に対して「反撃」し兼ねないからだ。「ちょっとした間違い」では済まない、恐ろしい話。

薔薇のデモ制作。薔薇を描く練習。最近特に話題のチャットGPTなら、「白っぽいピンクバラ、やわらかい感じ。緑の葉の中に浮かぶように」などと話すと、たちどころに数枚の薔薇の花を“描いて”くれる。もう練習する必要などない。少なくとも「描くこと自体が好きでないならば。」絵を発表などする時代は終わってしまった。技術の進歩は早い。あと数年もしないうちに、きっとそうなるだろう。その時やっと、「絵は自分自身のためだけに描くのだ」ということが実感されることだろう。

元気出そうぜ!

Apple-海を渡る(未完成)

やっと写真を載せられる状態まで漕ぎつけました。とりあえず、安堵しております。まだ未完成ですが、ここまでくれば(たぶん)6月までにはゴールにたどり着くでしょう。いや、あまりのんびりすると次第に疑念が湧いてきて、下手をすると作品を放棄してしまうこともないわけではないので、なるべく一気に今月中には終わりにしたいところです。

展覧会までには皆さん記憶を失ってしまうと思うので、安心して解説します。できるだけ早く忘れてくださいね。
 テーマは「海を渡る」(本当は「航る」と書きたかったのだが、漢字変換で出てこない。とりあえずこれで)。冒険ですね。子どもの頃、丸木舟(のようなもの)で沖にでたとき、ちょっと怖い思いをしたことがあり、そんなことで「たらい舟」だの「お椀舟」だのを見たり聞いたりすると、怖さと冒険心が絡まって心に浮かんでくるんです。

Appleはりんご、舟はホタテ貝。どちらも青森県の重要物産品です。それを外国へ輸出する図、にも見えますが、わたし自身はけっして経済界の人間ではないので、たまたまそんな風にも符合するというだけです。かたちに現れない本当のテーマは「色と線」。ふつう、「線」はかたちをつくる要素の一つ。ここでは線が色に溢れ、むしろかたちの認識をを邪魔する役割を持たされている。まだまだ線のパワーが足りないが、どうやったらもっと強度のある「色の線」が描けるか、研究中です。色の研究も同様です。

もうひとつのキーワードは「元気」。これはわたし自身の元気を奮い起こすために描いているのでもあります。これまでは心のどこかに、絵のためにはどこかで自分を犠牲にしなくっちゃ、という気持ちがありました。でも、それはいけないと最近は思うんです。絵は描く人も、見る人も、たとえそれが苦し気な絵であっても、最終的には人に力を与えてくれるもの。ならば、最初から元気な方がいいんじゃないの?という気持ちで描いているんです。