自動車を描く

池のある風景 水彩/コットン紙 F4
資料写真:ふつうは自動車の方を省略してしまいがちですね

テーマは「駐車場の車」です。あなたは車を描くのが好きですか?わたしは必要がない限り描かずに済まそうとしてしまいます。小さな子どもはたいてい自動車を描きたがり、よく観察していて、そして誰もが得意にしています。

大人にとっても自動車を見ない日は一日もなく、また毎日のように利用もしているのに、案外描けないものの代表格ではないでしょうか。もちろん、ロゴマークのような“記号としての自動車”ではなく、スケッチとか絵画、イラストとしてのそれのことですが。

そういう意識が常にあるので、駐車場の車の列とかフロントガラスに映りこむ木の写真とかを撮ることが少なくありません。いつか描くときがある、と思っているからですが、その割にはこれまでどことなく避けていたようにも感じ、あらためて練習してみることにしました。

描き終わったあとで見ると、この絵の中の駐車場のインパクトは当初思っていたより強く、「駐車場の見える風景」とした方が適切なほどです。やっぱり車が描けるとテーマの選択肢が広がると感じました。こういう車列?の風景を、もう数点、サイズも少し大きくして練習してみようと思っています。コットン紙を久しぶりに使いましたが、テーマに適切な選択だったかどうかは微妙なところです。

晨春会展はじまるよ!全員集合

Apple-海を渡る テンペラ F100

皆さん、ご機嫌いかがですか?ご機嫌悪い人も無理せず、堂々と生きていきましょう。世の中、機嫌いい人ばかりいるわけじゃないし、機嫌悪くなる理由も自分のせいとは限りません。

2023.6月13日(火)~18日(日)、埼玉県春日部市の中央公民館(八木崎下車徒歩2分)で36回目の「晨春会展」を開催します。全員集合ですよ!
 わたしはこの作品と、同サイズのもう一点「Apple-田園」の2点を出品します。このAppleが「海を渡って」どこへ行きつくのか、可能ならば来年もこの先を見たいと思っています。とりあえず出航したようですので。

“水しぶき”の「ような」表現をするのかしないのか、するとしたらどうするか、でほぼ1カ月間ほったらかしにしてしまいました。この絵一番の、表現上の問題ですね、きっと。そもそも水しぶきには全然見えませんね(いちおう「水しぶきの表現のつもり」なんですが)。かといって、水しぶきを写実的に表現したら、(説明は飛ばしますが)表現そのものがオシマイになってしまいます。絵画に限らず、あらゆる「表現」には、“通奏低音”のように見えないところでつながっている「一貫性」も必要なんです。でも、「素朴過ぎ」かもかも。

なんだか弁解しているように聞こえますのでこれくらいにしておきますが、描いている途中で、ときどき“ポパイがコーンパイプを咥えている図”のような錯覚を覚えました(「ポパイ」を知らない人の方が多いでしょうが、長くなるので説明省略させて頂きます)。海からの連想でしょうね。
 そういえばしばらく海を見ていないし、陰険な顔したカモメも見ていないなあ。車や電車で海を見に行くことはそんなにハードルの高いことでもないのに、つまりは行動力の問題でしょうか?それとも必要を感じなくなった、感性の問題?まあ、ともかく、海はいいよね、それが雨の日だって。

切り口

「指を組む男」テンペラ(2回目の登場) もう12年も前の作品です。この背景、もう再現できません

―あなたは今日、何をしていますか、またはしましたか?―
 何でもない質問のようですが、時にはされたくない質問ですよね。思わず、“ボーっとしてちゃ悪いんかい!”と投げ返したくなる時もあるんじゃないでしょうか。「今日の予定はもうありません」も、スマートフォンに表示されるたびに「だから、なに?」でした。

なぜだか、わたしはものの「切り口」を見るのが好きなようです。リンゴを齧ると、皮の切り口から中身が見えますね。そういう状況、状態を見るのが好きなんです。何時間も見ていて飽きないのです。でも、それじゃ食事が進まないので、現実にはむしゃむしゃと食べてしまうのですが。

彫刻家が木材を鑿で掬うときの鑿の跡。鑿が木材に入り込む角度、早さ。刃先の鋭さと木材の柔らかさとの絶妙のタイミング、つまり「技」を、頭の中で超スローモーションで想像・再生し、修整・編集し直して、納得して初めて、「この目で見た」という気持になれます。わたしは彫刻家ではないので、わたしのいわば「脳内ビデオ」が正しいかどうかは判りません。彫刻家自身からのサジェスチョンがあれば、それをもとに再修正することになりますが、そこに自分のピントが合わない限り、「見た」という気分にはなれません。
 そうやってすべて、ひとつひとつ自分の感覚の中に落とし込んでいくことが、わたしにとって「ものを視る」という意味のようです。そして、その最も解りやすい場所、それがどうやら「切り口」ということらしいんです。けれど、それはけっしてわたしだけの特別な視点でもなさそうです。時代劇映画などで侍が人を斬る。その切り口を検視すれば、どれほどの使い手か判る、などというかなり専門的な設定でさえ、誰もが疑問を感じずに映画に興じることができます。わたしの視点は、むしろとても常識的なものだということになるでしょう。
 

けれど、通り一遍の“ざっと見”では無理です。映画の中だって、深く「じっと見る」はずです。じっと見ている=何もしていない、じっと考えている=何もしていない、という等式が「あなたは今日、何を・・」の質問から感じられるとき、一つの断絶がその切り口を見せているんだな、と思うのです。