ざくろと折り紙のスケッチ

「ざくろと折り紙」2023 水彩(コットン紙)

ふたたびざくろを頂いたので、教室の参考作品にしようと数点描いてみた。背景の「半袖シャツ型の折り紙」も、俳句会の際にAさんから頂いたもの。以前に、尾形光琳の杜若(かきつばた)のプリントを、洒落た蓋つきのキャンディボックスに折ってくださったのもこのブログに載せたので、二回目の折り紙登場ということになります(2022/11/19「西洋梨と杜若(かきつばた)」)。

鉛筆スケッチから完成まで1時間半ほど。このステップを細かく作業分けすることができれば、誰でもこのくらいは描けるようにすることができる(はず)。そのステップ分けの分析と作業手順の明確化、一般化がわたしの仕事だ。

水彩スケッチができるようになればいいなあと、思っている人はこの程度描ければ十分だと思う(失礼な言い方で、ごめんなさい)。スケッチに必要なほぼすべてのテクニックが使われているので、技術的には必要十分という意味です。ただ、絵というのはきれいに描ければよい、という次元にとどまらない、もっと深いものがあります。
 それはスケッチ程度じゃ解らない、という意味ではありません。描くこと、見ることを通じて、そこから何を感じとるかが大切だと思います。どんな絵でもよくよく見れば、画面の表面を透かして、その人の感覚や考え方、身体状態、すこし時間をおけば時代の雰囲気さえうっすらと浮かんでくるものです。そういう眼を「自分自身で育てていく」、そしてそこからもう一つ深い世界への扉を開くということです。たぶんそこが「芸術」への「連絡通路」です。そこに入っていかなくても、自分の目で見えるだけで素晴らしいと思います。

 おそらく誰でも、スケッチを続けていると(ストイックに、必死にならなくても大丈夫だよ)、ある日不意に「スケッチとはこういうものなのかも」という覚醒の瞬間が訪れます。何度もそうやって、少しずつ深いものに到達するのです。見た目には別段上手になっているようには見えなくても、解る人には解るようになっていく。そうなって欲しいですね。

優先順位-1

「ざくろと眼鏡」水彩 F4

優先順位をつける必要がある人の多くは若く忙しい人だ。現役引退するとかして、ヒマを手にできた人は優先順位なんてつける必要ない。やりたいことを思いつく順番にやっていけばいいし、それこそ “特権” だと思う。ヒマこそ人を幸せな気分にし、それぞれの人生に微細な味わいをつけるプラットフォームだ。むろん忙しい人もそうではあるけれど、建築なら土台や壁、設備と、部屋のインテリア、調度の違い、車で言えば基本性能とマニアックなこだわりのような違いが、忙しい人と暇な人との間にはあるような気がする。ヒマな人も大事だよ、という意味ですが。

優先順位とは、「その時点での重要度の順番」ということだから、「その時点」が過ぎれば、優先順位が一気に変わるのはごく当たり前のこと。デッドラインに一番差し迫った事柄から重要度が高まりやすい。差し迫っているのに順位が高くならないなら、それは直ちにリストから削除される。急ぐ必要ない(急ぐべきではない)か、不要だってことだからね。

自由業、たとえば芸術家はそういうものから外れた世界だと思っている人もいるかもね。けれど、音楽家が勝手に一人で演奏してもそれで生きていくことはできない。聴衆を集め、何がしかのお金が得られるようにならなけば、サッサと排除されてしまう。
 芸術家にも優先順位はありますよ。ヒマそうに見えてもそれほど暇じゃあない。細かなデッドラインがいくつも積み重なっている点では「忙しいひと」と変わらない。ただ、デッドラインをいくつクリアしても決して一区切りとはならず、明日もまた自らデッドラインを引いていくのが、自虐的といえば自虐的なのが違いかな(笑)。

“アイデア” という “芸術” 

また「ざくろ」か・・ですか?(やや風化気味の紙に水彩)

“アイデア” は “芸術” に必要な要素ではあっても、イコールで結ばれることには違和感を覚える人がいるのが当然だと思っていましたが、現実はすでに「違和感など無い」ようなんです。

「Art 」という語が本来持っていた、「技術・職人」という語感からかなり遠ざかってしまっていますが、ここへきて発想とかアイデアというものが、素材やテクニックも含めて一層大きく切り離されてきたと感じています。
 単純な話、「こんな絵を描きたい」というアイデアを「言葉にして」生成AIに話しかけると、たとえば油絵の知識も技術も、素材・材料さえ無しに、数分後には「作品」がパソコンの画面に生まれて(生成されて)きます。絵そのものがまったく描けなくても、鑑賞力など一切なくても構わない。そうやって “生まれた” 作品にも絵画としての「著作権」が生じるというのですから、ストレートに「アイデア≒芸術」ということになったと言っていいでしょう。ここでは「言葉」が「絵画」の著作権を作っていることに、わたし自身は違和感があります。

“芸術家” というのは、少なくともわたしにとっては特別な存在“でした” 。「でした」と過去形で言わざるを得ないというのも心情的にはかなり辛いのですが、おそらくあと数年もすれば、「言葉が話せる人=芸術家」という環境になると想像します。わたしだけでなく、多くの人にとっても“芸術家” は今でも憧れの一つでしょう。それが何の知識も経験もなく、子どもでも使えるアプリケーションだけで、堂々と「著作権」のある「作品」を持つ「作家」になれるんですから、誰でも一度はなりたいですよね。たった数分で作品が出来、しかもお金も時間もかからず、身体的にも疲労する間さえありません。
 「芸術家」にとって、「アイデア」はかつては努力と才能を絞り出した、それ自体ひとつの “結晶” のようなものでした。長い鍛錬と研究で培われた技術がアイデアに繊細な肉付けをし、さらに幸運の女神が舞い降りて、初めて芸術作品が成り立つようなものでした。そうやって育ってきた稀有の「天才」に、「誰でもなれる」ようにするために数世紀にわたって様々な発想法が考えられ、コンピューターの発達がそれを加速し、とうとう生成AIに到達しました。

 あなたも、AIを手にしたたった今から堂々とした「芸術家」になれます(もしかしたら、すでに「芸術家」でしょうか)。あなたのまだ小さいお子さんもすでに天才芸術家です。もちろん、お隣も、その隣も一緒なんですが。町内全部、市全部、県内、国内だけでなく、そう世界中「天才」だらけの世になったんです。DNAも師匠も切磋琢磨する仲間も不要です。アルキメデスのような “数分野かけもち” の天才もそこら中にいます。なんと喜ばしい世の中になったんでしょうか!!
 できるだけ多く、深いアイデアを生み出すための方法論も、デカルトなど多くの天才たちによって考えられ、工夫されてきました。彼らの方法論もまた名著として伝えられてきました。画期的な、新しい発想をすること自体がとても貴重で難しかったからです。
 でも、そんなのももう読む必要なくなったんですね。たぶん喜ばしいことです。今は「コミュニケーション」の時代。「独創的」より「皆と同じ」「共感できる」発想が尊ばれる環境です。“他にはない” というアイデア自体が不要になってきたってことなんでしょうね。