“適当な” 絵・自由な絵

「向こう向きのデコイとフジツボ」水彩 2024.01.11

久しぶりに、自由なモチーフで、“適当に” 描いてみた。ここしばらく、YouTube用の水彩か、出品用の作品しか、描いていなかったような気がする。こういう「描いてみただけ」というのが本当は楽しいんだよね。

うまく描いて当たり前とか、うまく描かないと恥ずかしい、なんて思いこんでいると、ろくなことはない。楽しくないどころか、ストレスだ。絵を描くことは、本当は「ストレス解消」であってほしい。多くの画家たちにとって、半分はストレス解消になっているはずだが、半分はストレスにもなっているはずだ。なんにしても、“ねばならぬ” はよくない。

ある量を所要時間で割れば、単位時間当たりの「時間効率」が出る。一日に3枚絵を描けば、1枚しか描けない日の、3倍効率がいいことになりそうだが、それがバカバカしい計算であることは子どもでも分かる。一枚一枚の絵(の価値または意味)は、それぞれに異なっていて、それを測る基準・指標もまた、個人的なものだから。

絵を描くことは、やっぱり、どこかで子どもに還ることじゃないだろうか。それが心のふるさと、ではないのかな。世の中ますます生きづらくなっている。自殺する人も増えている。事故、災害も多い。そのうえ至る所で戦争まで起こしやがって。絵を描くことは、平和だ。平和になることだ。そのうえ、(少しの間でも)自由にもなれる。“適当に” 絵を描こうよ。

初夢

本当は、この絵の外側。何にもないところが美しい

美しいと感じる対象(モノとは限らない)は人それぞれ違っているだろうし、それが大事なことでもある。同じ一人の中でも、その成長の時期や精神の深化の過程で、対象も変化するに違いない。そして、多くは忘れられ、失われていく。美しさは一瞬。

初夢の中で考えていた。自分が、本当に美しいと思うものは何だろうか、と。あれでもない、これでもないと選ぶうち、ふっと「雪かも知れない」と湧いてきた。
 あとから考えると、元旦に雪景色を描き初めしたから、きっとそれが夢に出てきたんだろうと想像したが、その前に、美しいものを自分からどんどん捨ててきてしまったのではないか、と哀しい思いでいっぱいになっていたことも覚えている。
 記憶の箱の中から、焦るような気持で、失ってしまった「美しさ」を一つ一つ取り出している(それらが皆、紙の上の絵のように平面なのは笑ってしまうけど)。そして、突然掌に現れたのが、小さな石にこびりついている雪だった。大好きな林の中で、半分ほど凍りかけた雪を指で擦っていた。

そうだ、雪の色は白じゃなかった。じんわりと石の色が透けて、ギザギザした、そして風に擦られた子どもの頬っぺたのような色をして、その上に針のような小さな結晶も一つ二つ立っている。ずっと、それを描くだけでよかったんだなあ、と目が覚めたあとも考えていた。

師走の銀座風景

「ポインセチア」試作2 このレベルじゃ、まだ全然ダメ
師走の銀座界隈

先日(12/16)、国画会の安原容子さんの個展などを見に銀座へ行ってきた。最終日だったが、いずれの個展もひっきりなしに来場する人がいて、絵を見に来る人は減ってないんだな、といささか安堵した。

歩行者天国も久しぶり。中国語も多く耳に入り、かの国での観光がオープンになったことを肌で感じた。路上の思わぬところに座り込んで、めいめいスマホをいじくっている家族。まだ微妙な違和感はあるが、ひところの中国人観光客レベルからみると、ずいぶん日本人感覚に近くなったと感じる。

ホコ天をあるいていると、ヨーロッパ、アメリカ、南米系、中東系、アフリカ系の顔が行きかう。ワイシャツだけで行ったのに、それでも汗をかいた。12月半ばで、この暑さはどうなっているんだろうか。Tシャツ一枚で歩いている人もいれば、その隣ではダウンを着こんだ人もいる。そんなホコ天から、各画廊へは90度ずつ、カクカクと曲がっていく。

長年苦しめられたポインセチアの、一つの攻略法が見つかり、今年は少しだけ肩の荷を下ろした(近々、それをYouTubeに乗せるよ)。大みそかまであと10日。元気な人の、元気な個展を見ると、来年の発表までの十数点の絵の構想と試作をしながら、もう一歩ポインセチアの攻略法を探す気力も湧いてくるよ。