「絵」と「絵に似たもの」

「つぼみ-ジャーマンアイリス」 水彩、ペンなど

これは結局「絵画とは何か」という問題に帰着します。「絵に似たもの」=「絵ではない」ということは、絵とは何かという問いの裏返しだからです。

本題は絵のことですが、例を挙げるには彫刻の方がし易いので、そうさせていただきます。彫刻=立体=彫刻、ではありませんよね?自動車は立体ですが、誰も彫刻とは呼びません。ショーウインドーのハンドバッグも精巧で美しいものですが、やはり彫刻とは呼びません。けれど、この形を彫刻家がブロンズで作れば彫刻と呼ぶでしょう。同じように、ハンドバッグも彫刻家が作れば彫刻です。メタルとか革とかの素材の問題ではないんです。では、彫刻家が作ればなんでも彫刻なんですか?答えはイエス、です。

現代絵画のトップの一人、ゲルハルト・リヒター(独)は「(わたしにとって)眼に見えるものはすべて絵画だ」と言っています。ならば「絵に似たもの」などと云わずに、すべて絵だと言えばいいじゃないか、と思いますよね。要は、絵だとか絵に似たものとかの区別に意味はない、と言っているわけですが、それはリヒターだから。彼ほど、絵(画)とそうでないものの違いを追及している人は少ないのです。わたしのような一般、凡人にはもっと考えることが必要です。

砂に描いた絵もわたしは絵画と認めます。ペンライトで空中に描いた絵も認めます。彫刻家が作れば、アンパンも彫刻であるように、画家が描くから絵画なんです。学校の先生が描いても絵画にはなりません。その先生が「画家」になって、初めて「絵画」になるんです。この場合の「画家」は職業欄のことではなく、その人個人の、マインドとしての「画家」です。芸術家にならなければ、芸術作品を創ることはできない、とわたしはそう感じています。

「絵を楽しむ」って-2

「オオカメノキ」水彩 F6

現代では、簡単な文をいくつか綴るだけで、ソフトが “original” の絵を描いてくれます。売ろうと思えば、それを売ることもできます。それを売るためのプラットフォームにも事欠きません。欲しい人、それを見るだけの人とも、少なくとも外形上は、これまでの油絵や水彩画と同じように、いや、もっと簡単に「楽しみ」を共有することができます。

「観る楽しみ」という点で言えば、浮世絵版画を買い、ふすまや屏風に貼り付けて楽しんだ江戸の人々、美術館前に長い列を作って、一目名画を見ようとチケットを握りしめる人々も、ベッドに寝そべりながら多くの人とチャットでAIで描いた絵を共有する人々も、それぞれ自分に合った(選択肢があろうとなかろうと)やり方で「楽しむ」、ということに変わりはないのかも知れません。

AIで描く絵は「統計」を基に生み出されるものであることが、理論上はっきりしています。筆で描く絵は「感覚」を基にしています。基にするものが、一見、水と油のように異なったものに見えますが、感覚は経験とも結びつき、経験は(ゆる~く)統計とも関わっていそうでもあります。統計上の一つ一つの画像データの中にも、個人的感覚や経験が反映されているでしょうから、わたしが感じている以上に、実際は近いものなのかも知れません。AIが極めて短期間に、簡単に社会に受け入れられ始めているのも、そういうことなのでしょうか。

けれど、少なくともわたしは、「描く楽しみ」を AI と共有できません。理由をよくよく考えてみると、AIには「(生みの)苦しみがない」からかも、と思い当たりました。「楽しみ」を共有する話をしているのに、「苦しみ」の共有を持ち出すのは矛盾かも知れませんが、それは「描く楽しみ」の不可分のパートとして、確かにそこにあるのです。見るだけの人にも、作者の苦しみを想像できるような、何らかの経験を持っている。だからこそ、より深い共感が生まれていた、そんな気がします。

「絵を楽しむ」って

「クレマチス」水彩

「絵を楽しむ」って、普通に使う(使ってきた)言葉ですが、最近?だんだん難しく感じるようになってきました。つまり「絵」というのが「絵画」ではなくなってきたようなんです。「絵画」の定義が揺らいでいるというか、「楽しむ」の意味がゆらいでいるというか、そんな感じがするんです。

現在、多くの、絵を描く人にとっては、「絵を楽しむ」ことに何の変化もありません。文字通り、描いて楽しみ、観て楽しむ、それを多くの人と共有して楽しむ、それがすべてです。描かない人にとっては、観て楽しむ、その機会を共有して楽しむ、ことでした。

歴史上は、「絵を楽しむ」ことに、版画(出版物)が大きな貢献をしたことが知られています。誰もが知っている「浮世絵版画」。江戸時代では、絵を楽しむと言えば、まずはそのことを指したに違いありません。現物(版木?)を見たいなどという発想すらなかったでしょう。ヨーロッパでも、現物の絵を鑑賞できたのは貴族階級、僧侶、教師くらいのもので、ほとんどの人は教会の中の宗教画や、簡単な版画(摺りもの)だけを見て楽しんでいたはずです。

展覧会場で実際の絵(絵画)を鑑賞することができるようになったのは、比較的近代になってからのことです。鑑賞者は絵を通して作者の意図や感覚を共有、享受。それが「絵を楽しむ」ことの中心的なイメージになりました。
 その「絵」がAIの出現で、変質?しようとしています。これまで「観て楽しむ」だけだった人々が、「言葉」を変換することで「絵を描ける」ようになってきたのです。画材の知識も、もちろんデッサン力など何も要りません。「ピカソ風のブロンドの女」「椅子に座っている」などと、短い文を打ち込むだけでソフトが「絵を描いてくれる」んです。しかも、オリジナル性も保証されます。わたしのような従来型の画家から見れば、「絵を描く楽しみ」すら共有できなくなってきたのです。嫌な時代になってきたなーと感じています。