愛の深さ 2

「芍薬ー2024・5月」 水彩 F6

「愛の深さ」とは、結局のところ「関心の深さ」と非常に近いものではないか、と思う。たとえば、先日、フジコ・ヘミングさんのことを書いたが、彼女のピアノへの愛と、ピアノに対する関心、興味の深さと、それは本人にはあまり区別できないのではないだろうか。

子どもに対する親の愛情だって、子どもが何を感じ、考え、今どうなのか、それらは関心、興味の深さと言い換え可能なのではないか。強いて分けるならば、それに自分がどう関わって生きようとするのかという、能動的な立場の違いがあるかもしれないが、彼女の場合で言えば、違いなどほとんどないのではないかと思う。

もしも、そのアイデアが正しいとするならば、たとえば、絵画への愛の深さは絵画への興味・関心の深さだと言える。ただし、そのことは、絵を描かない人は描く人より絵画への愛が薄い(浅い)ということを、まったく意味しない。描くことが好き、観ることが好き、それぞれ別のものだと思うから。描かなくたって、好きな画家、作品、美術の歴史、美術の周辺技術など、興味・関心の対象となるものは、どれをとってもそれぞれ底なしに深いものがあるだろうし。
 要するに、通り一遍で、済ませられないものには、どれも愛を感じていると言ったら言い過ぎだろうか。スイーツ愛でもラーメン愛でも、必ずそこに自分の何か、たとえば時間、たとえば体力、たとえばお金というように、負担をかけてでも「もっと深く知りたい」「深く関わりたい」という衝動のようなものがある。それを愛と呼んでいいのではないか、ということ。

わたしたちは機械ではない。機械のような正確さも強さも持ち合わせない。コンピューターのような記憶力も計算の早さも無理。間違い、無駄なことを繰り返す。けれど止められない、知りたいこと、もっと関わりたいことがある。それは愛と同じものではないか?
 自分の胸に手を当てて考えてみる。なにかを愛しているだろうか。

愛の深さ

ピアニスト、フジコ・ヘミングさんが亡くなった。26日のNHKで(追悼の)特集番組を見た。彼女のことを知ったのもNHKの特集番組で、だった。あれから25年も経っていたことに驚いた。

演奏家にとって楽器はまさに自分の一部、とあらためて思いを深くした。病院で、「ピアノはもう弾きたくないと思う」と言った。「と思う」というのが面白い。このひとは、本当に自分を突き放していて、まるで他人を見るように自分を見ている人なんだ、と感じた。けれど、ピアノに対してはそうじゃない。ピアノこそ自分自身、とでも言っているようだ。鍵盤という神経に触れば、指が自然に動いていくような。

リストとショパンを深く敬愛し、その人生に自分を重ねて、ピアノの旅をする。自分(=ピアノ)を最高に高めてくれるその二人との一体感があるのだろう。リストがピアノを弾いているのか、自分がリストを弾いているのか、時空を超えての一体感。わたしなど凡人では想像もできない高みでの音楽の楽しみ。芸術への深い愛(音楽と言わず、あえて芸術と言いたい)。この深さを持ち得ることを「才能」と呼ぶんだろうと思う。

つまらなく、上手な絵がある。山ほどある。それはたぶん、愛が薄いか、別のものを愛しているから。愛が薄いのは、ある意味で仕方がない。それも才能だから。画面から何かが伝わってくるとき、それが愛の深さなんだな、と分かった気がする。

いよいよ絵を描かなくっちゃ

「デンドロビウム」 水彩

いよいよ絵を描かなくっちゃならない。義務ではない。仕事でもない。自分の人生としての、まとめとして絵を描かなくっちゃならないんです。

今までもたくさん絵を描いてきたし、今も描いてはいるのですが、どうも「自分の絵を描いた」って感じがしないんです。このままじゃ、自分の絵を描かないまま、あの世行きだなー、なんて考えるトシになってきたんです。自分をフジミ(富士見×、不死身〇)だと信じていたこのワタシが、ですよ。

じゃあ、これまでの絵は何だったの?ってことになりますよね。“かなり手前味噌” になりますが、これまでだって、「他人の絵」を描いてきたわけじゃあないはずだし、いま自作を見ても、自分の世界観がそれなりに絵の中に込められているとは思います(これを「独りよがり」というのでしょうが)。でも、何か足りないんです。
 良い絵を描きたい、というのとは違います。「良い絵」が描けたと自分が思っている時が、一番ダメな絵を描いている時だ、ってのは、これまでの人生で深~く味わってきたから、そんな次元はもう卒業しました。願うのは、「自分にもこんな世界があったんだ」or 「もうこれ以上は無理だぜ」ってヤツかな。

それを描いた直後に死ぬってのはまるで時代劇ですが、アイツは昔の人だからと、そこは大目に見てもらって、「この人があと数年生きていたら、もっと面白い絵を描いただろうなー」と、想像したくなるような絵を描いて死にたいんです。べつに、そういう評価が欲しいわけではありません。そう思えるような絵を描きたいという気持、あの世へ持っていきたい一枚ですね。