彼岸花の周辺

         「彼岸花」  ペン、水彩

先日のブログに上げた、「曼珠沙華=彼岸花」を描いてみます。花そのものは凄かったので、それを描くためののエスキースです。

一つ一つの花を描いても「彼岸花」にはなりません。その前に個別の植物学的分類というものがあって(それ自体も「揺れ動く」のですが)、「彼岸」という仏教用語に繋がる、歴史的環境的意味関係をいったんは断ち切ります。それを踏まえたうえで、秋の彼岸の時期にまとまって咲くこの花の、全体としての存在が「彼岸花」だというのなら、まとまった花の「情景」こそ「彼岸花」ではないか、なんて理屈を捏ねてみた試作です。

彼岸花を一個ずつ描いてもしょうがない(というより、意味がない)。かと言って赤のベタ塗りだけで判ってください(記号)ってのも、ある意味傲慢でしょうか。ペンで花の下描きをクルクルしてみたら、あの飾り花のクルクル感を「感じて貰えるかな~」なんて120%希望的観測の初回エスキース。甘すぎるのは解ってますが、でも他にどうやったらいいんでしょうね?

チューリップ畑ですか?といわれても返答ができません。コスモス?といわれたら、ちょっと違うかもーなんて言えるけど。花の「かたち」ではなく「花の情景」ですから、個々人の感覚に異を唱えることはできません。というわけで今回の弁解と致します。

時間を所有する

     「棚の静物」 水彩

世界は目まぐるしく動いている。あるものは更に進歩し、けれど、あるものは退化もしくは逆行する。世界はそうやっていろんな方向へ動いている。だから、同じところにとどまっているつもりでも、相対的にその動きの中にいることになる。

でも、それは現在の地球での話。時間も空間も、ある意味では人類の発明品だ。この地球もやがて物理的に崩壊して宇宙の塵となり、どこかに新しい生命が生まれれば、そこからまた「新しい」時間と空間が生まれる「可能性」がある。天文学者によれば、現在の人類と同じような進化を遂げる確率は、ほぼゼロに近いらしいけれど。

つまり、わたしたち、いや、いま地球上にあるすべての生命が「奇跡」の中に在ると言っても過言ではない。けれど、その奇跡の中を見ると、矛盾だらけ。完ぺきなものなど何一つないことは顕かだ。それなのに、さらにその一部に過ぎない「人類」だけが、ひとつの正解を巡って、自らの正当性性を主張して殺し合っている。それ自体が矛盾であることに気づこうとしない。

人類だけが時間を「所有」できる。「わたしの時間」。それがいかなる奇跡であるか、死ぬ前にもういちど考えてみるのは悪いことではない、と思う。たとえそれがちょっと辛くても。「棚の静物」。何も描いてはいないが、そこにわたしの時間が残っている。

涙と秋

     「葡萄の水滴」  水彩

急に秋の気配になった。「暑さ寒さも彼岸までといっても、この暑さはとうぶん続くだろう」と思っているうちに、ぴったり彼岸まで、ということになった。

スーパーにも秋の味覚が並ぶようになった。この葡萄は実は巨峰という種類の葡萄だが、農家さんが作ったものではないので、あのような黒さにならないようだ。あの黒さを創り出すのは、さすがに農家の力というものだろう。けれど、聞くところによると、今年は日射熱が高過ぎて、色落ちというか、この絵のような葡萄が多くなったそうだ。ちなみに味は黒いものと変わらないらしい。

水彩教室で「秋らしい静物」を描いてみよう、なんて言ってるうちに、いつの間にか「水滴特集」になってしまった。「水滴」の表現は、14世紀ごろの画家たちにとって、腕の見せ場でもあったらしい。フランドル(現在のオランダ)の画家ファン・デル・ウェイデンが、十字架から降ろされたイエスを抱くマリアの涙を描いたのが、ヨーロッパ中の画家の注目を集めたのだという。

その「透明」の表現が画家たちを魅了し続けてきた。同時代のファン・アイクの、恐ろしいほどの「宝石」を投下する透明な光。当時やっと普及し始めた透明のガラス窓を、絵の中に積極的に取り込んだ17世紀フェルメールまで。今でも「透明感」のある絵は人気がある。絵画の黄金時代、スタートは涙という「水滴」だった。