遠近法の本質

ピンクの花と蘭のスケッチ

遠近法と言えば「透視図法」をすぐ思い浮かべ、「あぁ、苦手なんだよなー」と思った方、「透視図法は一応マスターしている」と思った方、がっかりする必要もありませんし、それで十分だとも思えません。

遠近法はどうしてできたんでしょう?―遠近感、距離感を表現したかったからですよね。でも、なぜそんなものを表現したいんでしょうね?―それは、好きなものと嫌いなものを区別、表現するためだ、とわたしは思うんです。

「ママが大好き」な子どもは、お母さんを(お父さんより)大きく描きます。それが正直な距離感だから。大好きなママに、子どもはいつもくっついています。間近で見るママは時には自分を覆い隠すほど大きな「物体」です。お父さんも優しいけど、ママと同じというわけにはいきません。なので少し離れ、少し小さく見えています。剃り残しの髭が見えるくらいの距離感でね。
 子どもの絵を見ると、距離感の違いは明解に表現されています。これが「遠近法」の本質だ、とわたしはだんだん考えるようになってきました。

わたしがあなたを好きか、嫌いか。この味が好きか嫌いか。この服が着たいか着たくないか。それは視点の裏返しでもあります。子どもから見て、大人が自分を好きか嫌いかは、子どもの生存に関わる大問題。ヒトは生まれた時からそうやって、自分以外のヒトやモノとの距離を測り、自分だけのメジャーを作ってきたんですよね。それが遠近法の原点。
 ヒトやモノとの距離感はそんなふうに一人一人固有のものとして積み重ねられていきます。でもそれだけじゃあ話が具体的に伝わらないから共通のツールが必要だろうね、って生み出されたのが、たとえばメートル法などの距離の単位だったり、ちょっと跳んで「透視図法」、なのではないか、とわたしは想像します。
 あなたの心の中に、あなた自身の「遠近法」があるのをわたしは知っています。それを、見せてくださいね。

絵画指向

補色を使う

今日のデモ制作です。油絵クラスなどでは「補色」を並置することはごく普通の技術ですが、水彩で、特に顔などを描くときは感覚的に躊躇しがちです。補色とは、混ぜ合わせるとグレーになる、という色の組み合わせだからです。

色の滲みを多用する水彩画では、「並置」のつもりが「滲み」で混ざってしまい、グレー化する可能性がとても大きい。そこが、色をきれいに出したい水彩では用心せざるを得ないわけですね。

ごく普通の、水彩による写生的感覚では、人間の顔にこんなふうに「緑色」を使うことはほとんどないでしょう。日本人の顔なら、バーミリオン、クリムソンレーキ、マゼンタ、イエローオーなどの暖色系、陰の色としてセルリアンブルー、コバルトブルーくらいを使い回すはずです。
 混ぜるとグレーになる一方で、補色とは「お互いの色を引き立て合う関係」という意味も持っています。緑を並置することで、単独の赤より存在感のある赤み、血の色、血色のいい顔色を期待することもできるわけです。両面があるんですね。

でも、実はそれとは別に「絵画的」という効果がある、と今日のデモ制作で再認識しました。これをもっと洗練して全員が使えるようになったらいいな、と感じました。「写生的」に対しての「絵画的」指向です。この考え方、感じ方はもちろん顔だけに限られているわけではありません。使い方を工夫して、ワンランク上の作品作りに役立ててもらおうと考えています。

アート、アーティストってなんだろね?

        第77回二紀展:松本邦夫「響く景」 (国立新美術館、東京)

昨日あさイチでYouTubeをアップロードしたあと、乃木坂の国立新美術館へ二紀展、独立展を観に行ってきた。

どちらの展覧会にも知り合いが何人もいる。彼らが元気で出品しているのを見るのが一番の目的。内容なんかどうでもいい、とにかく元気でバカデカい作品を出していてくれればそれでいい。その上で、バカなことをやってくれればバンザイでもしたいところだが、皆さん、さすがと言うべきか、なかなか上手にまとめてソツなくごまかしてやがる。でもま、それはそれでいい。でも会場の黒リボンだけは、寂しくてやりきれない。

メディアがいう「アート」と、わたしたちアーティスト(自分のことをアーティストに含めていいのかな?)との感覚は全然違う。メディアだと、なんだか非常人的な「独創的」発想で、人目に触れないところでの努力の結晶、的にまとめてしまいがちだ。だから普通の人との薄い接点がますます薄くなる。
 それはたしかに見当違いではないし、放送という時間の制約がある中ではある程度やむを得ないところがあるとは思う。とはいえ、現実のアートはもっともっと身近で、多様で、時には楽しく、時には厳しい。

アーティストにとって、一番大事なのはアートであって、命はイコールもしくはその次、ということは確かだ。アートは、普段の生活や他のすべてのことに多大な「コスト」を伴う「生き方」そのものです。それを受け入れるには、才能などよりむしろ一種の覚悟が要る。ほんの束の間の解放と、ほとんどの時間を消費し続ける覚悟だ。そこが共有できているから、アーティストは互いにライバルであると同時に、貴重な、貴重な仲間なんです。
 そのくせ、ではアートってなんですか?と問われると、たいていすぐ答えられない(笑)。メディアにとっては、「言語化」が必須の手段だからそう訊くのだが、アーティストにとっては言語化が主体ではないからね。無言あるいは意味を為さない “から騒ぎ” も、「作品」そのもの、「体現」そのものを見よ、と言ってるだけのこと。言語化しか伝達方法がないと思いこんでいるような人々には、そこが通じにくい。でも、その思い込みさえ外れれば、アートなど、すぐ目の前にあるごく普通のこと。だって、ごく普通の人(「普通」という意味が曖昧だけど)がやってることなんだからね。
 アーティストがやることすべてが「アート」なんです!その単純な意味が、どうしてもメディアを通すと、歪められ、時にはまったく伝わらない。実物、本人の前に自分自身が向かい合えば、すぐにアートとの会話が始まるんだけどね。