松本邦夫個展に行く

個展会場はゆったりしている
松本さん独特の女性像です

今日は中秋の名月。良い月でした。満月を見上げながら、昨日、松本邦夫さんの個展に行って良かった~と思いました。同じギャラリーの別会場で同時個展をされていた吉岡正人氏ともゆっくりお話しできたし、なにより松本さんの絵が素晴らしく良かったので、つい長居をしてしまいました。

国立(くにたち)市にある、「コートギャラリー国立」9月12日~24日まで。国立駅南口を出てすぐの道を右側(立川方向)に行くと2,3分です。見たい方はぜひ早めにご覧ください。松本、吉岡両氏はともに公募団体二紀会の委員。実はわたしも昔はこの会に所属しており、お二人には大変お世話になりました。

でも、作品は常にそういう関係と関わりなく拝見しています。松本さんの作品はモチーフや題材の変化はそれほどないのですが、ここ数年で、なぜかぐっと魅力が増してきた、とわたしには感じられます。何が変わったんだろうと考えると、テーマとその扱い方がシンプルになったのかな、と思っています。
 画家というのは誰でも、こういうものを描きたい、これだけは描きたいという強いこだわりを持っているものです。それは絵を描き続ける原動力なのですが、絵画=視覚芸術という点で見ると、そのこだわりが視覚性(視認性?)を阻害することも、往々にしてあるのです。そのこだわりを、視覚のセオリーにうまく乗せる方法が作家のスタイルということであり、それが創れなければ作家としては苦しい制作をつづけることになります。

松本さんはあまり苦しいそぶりも見せず、そのジレンマを乗り越えたのだなあと思います。ですが、それは決して楽な道だったという意味ではありません。彼は非常にまじめにそのことに取り組んでこられ、そして3,40年かかって、ついに乗り越えられたと、わたしは感じます。長い長い苦労の日々があったのです。いつも万年青年のようにすました顔で、そして常に人を気遣いながら、人に頼らず自分を曲げず、とうとう自分の世界を確立したのだと思います。すごい人だなあと、改めて思いました。
 今日の中秋の名月は見事な月でした。彼の個展を寿いでいるように見えました。

水滴を描く

葡萄の水滴(水彩・制作中)

先日マスカットを描いた。単色だから簡単かと思ったのが浅はかだった。確かに「モノは単純に見えるものほど難しい」ことは十分に知っていたはずだったのに、つい甘く見てしまった。このスケッチはその反省を生かしつつ、テーマを「水滴」にした。

単純なものほど難しいというのは、例えばジャガイモを描くのは、蜜柑を描くより難しいし、蜜柑は栗を描くより難しい。ジャガイモとただの泥だんごとを見分けられない人はいまいが、見た瞬間にそれと分かるように描きわけるのは至難の業だ。蜜柑だってただの黄色い丸ではない。海辺のありふれたつぶ貝は、棘のかたちが複雑なサザエなどより、特徴がないぶん、難しいのである。

別に絵だけではない。例えば小説だって、その辺のごくごく平凡な人間を描く方が、偉人伝を書くより難しいともよく聞く。巷の騒音を音楽にするのもそういう意味で難しいことだろうと想像する。

話を戻すが、絵というのは眼で見て分かればいいというものではない。正確に描かれていればいいというものでもない。上手ければいいというものでもない。見る人の心になにか点火するものがいい絵である、とわたしは思う。下描きから完成まで、どの段階が「点火」になるかは作者にもわからない。下描きが一番良くて、描くほどに悪くなる絵も、実はたくさんある。この絵もこの先、どの段階がベストなのか、そして、そこで自分で止められるかどうか。その辺が、実力があるかどうかの境目だな。

立体感

手前が水彩で描いた絵。奥が実物(制作時はもっと上からの視線)

見る人が絵に求めるものは様々。ある人は写真そっくりなものがいいと言い、或る人は写真のようじゃ詰まらないという。またある人はそもそもかたちなど必要なく、色さえ無くていいという。実際にキャンバスをそのまま展示したり、そこに傷やシミを作るだけで「作品」という作家もいる。なるほど、確かにそれも有りだ。見る人がそこに何かを「見出す」ならば。

子どもの頃はそんなとは全然考えたこともなかった。実物そっくりに描きたいと思ったこともなかったが、「頭の中にあるものは眼に見えるようにしたい」とは、強く願っていたのは間違いない。

そんな時、おとながちょっかいを出す。「これを描いてみろ」。どのおとなも想像力というものが無かったから、写真のように、つまり写実的に描いて見せるより説得力のある方法はなかった。子どもだからそんなことを論理的に考えたわけではないが、直感的に分ってしまった。
 それで、いろいろなものを描いた。特にお札を描くとおとなは面白がった。紙幣はレベルが高いので、描く側にも挑戦し甲斐があったから。そっくりに描くには観察力が要る。それも描く側からではなく、観る側に立っての。大きくなってもそれらの(想像力に乏しい)要求は絶えることがなく、従って今でもそれに応えるだけの写実力は捨ててしまうわけにはいかない。

立体感を喜ぶ人が多い。なぜだか本当はよく解らない。たぶん、平面なのに立体に見えるのが不思議な感覚になるのだろう。描く側から言えば、別に立体感など作っているわけではない。ただただ、見えたもののデータを或る美術的関数の中に入れれば、こうなるだけのことだ。創作力というのは、その関数以外のこと、描いているとそんな風に思えてくる。