時間を所有する

     「棚の静物」 水彩

世界は目まぐるしく動いている。あるものは更に進歩し、けれど、あるものは退化もしくは逆行する。世界はそうやっていろんな方向へ動いている。だから、同じところにとどまっているつもりでも、相対的にその動きの中にいることになる。

でも、それは現在の地球での話。時間も空間も、ある意味では人類の発明品だ。この地球もやがて物理的に崩壊して宇宙の塵となり、どこかに新しい生命が生まれれば、そこからまた「新しい」時間と空間が生まれる「可能性」がある。天文学者によれば、現在の人類と同じような進化を遂げる確率は、ほぼゼロに近いらしいけれど。

つまり、わたしたち、いや、いま地球上にあるすべての生命が「奇跡」の中に在ると言っても過言ではない。けれど、その奇跡の中を見ると、矛盾だらけ。完ぺきなものなど何一つないことは顕かだ。それなのに、さらにその一部に過ぎない「人類」だけが、ひとつの正解を巡って、自らの正当性性を主張して殺し合っている。それ自体が矛盾であることに気づこうとしない。

人類だけが時間を「所有」できる。「わたしの時間」。それがいかなる奇跡であるか、死ぬ前にもういちど考えてみるのは悪いことではない、と思う。たとえそれがちょっと辛くても。「棚の静物」。何も描いてはいないが、そこにわたしの時間が残っている。

涙と秋

     「葡萄の水滴」  水彩

急に秋の気配になった。「暑さ寒さも彼岸までといっても、この暑さはとうぶん続くだろう」と思っているうちに、ぴったり彼岸まで、ということになった。

スーパーにも秋の味覚が並ぶようになった。この葡萄は実は巨峰という種類の葡萄だが、農家さんが作ったものではないので、あのような黒さにならないようだ。あの黒さを創り出すのは、さすがに農家の力というものだろう。けれど、聞くところによると、今年は日射熱が高過ぎて、色落ちというか、この絵のような葡萄が多くなったそうだ。ちなみに味は黒いものと変わらないらしい。

水彩教室で「秋らしい静物」を描いてみよう、なんて言ってるうちに、いつの間にか「水滴特集」になってしまった。「水滴」の表現は、14世紀ごろの画家たちにとって、腕の見せ場でもあったらしい。フランドル(現在のオランダ)の画家ファン・デル・ウェイデンが、十字架から降ろされたイエスを抱くマリアの涙を描いたのが、ヨーロッパ中の画家の注目を集めたのだという。

その「透明」の表現が画家たちを魅了し続けてきた。同時代のファン・アイクの、恐ろしいほどの「宝石」を投下する透明な光。当時やっと普及し始めた透明のガラス窓を、絵の中に積極的に取り込んだ17世紀フェルメールまで。今でも「透明感」のある絵は人気がある。絵画の黄金時代、スタートは涙という「水滴」だった。

作家と会社

栗と葡萄の水滴

今日は上野、乃木坂と、4つの大きな展覧会を駆け足で廻ってきた(疲れた)。東京都美術館の一水会、国立新美術館の行動展、新制作展、それと企画展の田名網敬一展。今日は田名網敬一展を紹介するはずだったが、会場での写真はちゃんと撮れているものの、なぜか転送ができないのが残念(たぶんiPhoneとmicrosoft との相性の悪さが復活)。

田名網氏は画家であり、アートプロデューサーであり、・・であり・・でありの、マルチな美術家である。アート系の雑誌や、おしゃれな広告、雑誌などメディアでの活躍が凄まじいので、うんと若い人は知らないかも知れないが、多くの人は「ああ、あれを描いた人か」と一度は眼にしたことがあるほどの人。

一人の人間がやれる仕事には限りがある。その「限り」を軽々と越えていくのが天才だとするならば、彼は間違いなく天才である。ピカソと同類の。実際にピカソが大好きらしく、ピカソ風の(と言ったら怒られるに決まっているが)絵を、これでもかというほどたくさん描いている。模倣だとか言われるのを気にしないというより、ピカソ愛のあまり、ピカソになり切って、ピカソより多くピカソ風の絵を描いてやる、という勢いなのである。しかも、それは彼にとっては趣味の一部。

現代において社会で大きな仕事をするには「会社」が不可欠である。彼の仕事のほとんどは、会社という組織との共同作業である。会社というものが彼の力を存分に引き出す力を与えている。経済だけでなく、会社(組織)というものが社会の中で持つ力をまざまざと見せられた。個人の力など、それが原点であるにしても、社会に対するインパクトなど知れたもの。
 一水会、行動展、新制作展など、どこにも有為の才能の持ち主がいて、アイデアや技を競い、それなりの存在感を示してはいるのだが、それが束になっても残念ながら会社には勝てないのである。だから無用だ、というわけでは全然ないのだが。