押絵羽子板

スケッチ中

実際の年賀状には使わなかったが、デザインだけしてみた。モチーフの押絵羽子板は、ひょんなことから人を介して頂いたもの。埼玉県春日部市の伝統文化の一つとして有名だ。製作者の名は知らないが、なるべく実物に似せて水彩で描いてみた。

描いてみて驚いたのは絵師のデッサン力である。製品自体は一点一点手描きしているとは思わないが、少なくとも最初の絵は構図・構成も含め、誰かが描いたものだろう。

押絵羽子板は布などを立体的に貼りつけて作ってあるものだが、顔や指などは一応平面上(厚みのあるスチレンボードのようなもの)に描いてある。それに陰影で立体感をつけてある。伝統的な意匠に沿いながら、意外に(と言っては失礼だが)繊細で鋭く、かつ的確。
 陰影のグラデーションも丁寧だ。手馴れていてもぞんざいではない。そんじょそこらの観光土産品のレベルとはさすがに格段の差。確かにこれは伝統文化であると同時に、一枚の絵なのだというプライドを感じた。描いてみる機会が得られてラッキーだった。

一枚の羽子板には、木を育てる人から数えれば、かなりの数の職人さんたちが関わっているにいるに違いない。その人たちが全員(家族も含め)生活していくには、羽子板が高価で飛ぶように売れていかなければならない、と思う。羽子板の需要という現実を考えれば、廃業(と聞いている)もやむを得ない選択かとも思うけれど、こんな小さな部分にも、職人のこだわりと実力が込められている。伝統文化にちょっとだけ触れた正月だった。

明けましておめでとうございます

「種(たね)のかたち」 SM、テンペラ、アクリル、蜜蠟
「Apple村の風景」―こちらも反放置だった

明けましておめでとうございます。今年も元気で行きましょう。

6年ほど前、100号を含め何点か「種」シリーズ?のようなものを連作したことがある。その中の一点が、どうしても仕上げることが出来ず、はんぶん放置状態になっていた。暮れに(と言っても昨日のこと)、来年は(と言っても今日のこと)テンペラを描くぞ、と言った手前、昨日のうちにメディウムだけは作っておいた。

8カ月もテンペラ制作をしなかったので、もう描き方を忘れている。玉子を割り、油とかき混ぜてメディウムを作っているうちにだんだん思い出してきた。顔料を入れる箱の上に、プリントだのいろいろ乗っかっているのを片付けながら、何を描こうかと、地塗済のキャンバスを探しているうちに、この “半放置状態” のものが転がってきた。まさしく種を播いておいたようなもの。

新作ではないが、まずここから手を付けました。下の絵も半放置状態でしたが、ついでに仕上げてしまいました。

「欠けたもの」のある美しさ

よく聞くことだが、(現場での)スケッチが一番良く、習作を重ねるごとに悪くなって、最後の完成作が一番面白くない、という話。半分は事実だろう。時間はスケッチが一番短く、完成作が一番長くかかっているのが普通。時間をかければいいものが出来るとは限らない。

なぜ、限られた時間、空間の中で描かれたスケッチが、よく構想も練られ、必要十分な画材とたっぷりの時間をかけて描かれた作品より魅力があったりするのだろうか。

わたしの感覚では、それは現場での直感的な反応も含め、「未完成の力」ではないか、と思う。「未完成の音楽」というのが魅力的かどうかは分からないが、絵や彫刻ならあり得る。半分しか描かれていない、あるいは部分的にしか塗られていない絵が、えもいわれぬ光を放っているのを、きっと多くの人も経験しているに違いない。彫刻もそう。ミケランジェロの荒削りの「奴隷像」、円空仏、未完成とはちょっと違うが、「両腕の欠けた」ミロのビーナス。「欠けたものがある」こと自体がその源泉である。あるいはその「欠け方」が美しいのだろうか。

反対に「行き過ぎた魅力」もある。たとえば「バロック」。たとえば(盛りを過ぎた)「剥落の美」。「源氏物語」、その現存の絵巻の絵など。バロックでは「節度」が欠け、(現存)源氏物語絵巻では「力・Power」が欠けている。たしか日本民芸運動の主唱者であった柳宗悦(やなぎむねよし)が、「茶碗の欠けた一片が、整った完成作より美しいことがある」と言っていたような気がする。