テンペラをもう一度やり直し

栃木蔵の街(こうらい橋) ペン  2011

川越・ギャラリーユニコンで「坂谷 和夫」個展を見た。非常に素晴らしい個展だった。これまで何度か坂谷氏の個展は見てきたが、会場が広い分、余裕ある大作がとても見ごたえがある。作品上の疑問も少しあったが、作品を前に作家の話を聞き、過去の作品も見られたことでそれもほぼ解消した。なにより作家のポリシーに揺らぎがなく、その鮮明な立ち位置に感銘をうけた。久しぶりにいい勉強になった。31日まで。

最近数年ぶりにテンペラをやり直している。ここ数年テンペラを描かなくなったが、もともとテンペラを捨てたわけではなく、マチエールや、環境問題との兼ね合いから、アクリル、アキーラとの相性を探る都合上、アクリルその他の画材研究をしていたからだった。ある程度その方向での目途はついてきた。今度はそれらの総合を目指して再びテンペラに戻ってきたというわけだ。

それにしても数年のブランクは酷い。画材の感覚が全然手についてこない。20年以上やってきたのにコロッと完全忘却している感じがあって、戸惑う。それでも年末までには何とか大作まで漕ぎつけたい。それにしても暑い。体力・視力ともに落ちているが、何とかして研究を完成させ、今より自由な扱いが出来るようになりたいと願っている。

 

モヤモヤのこと

人形  F4  水彩  2011

久しぶりの銀座でのグループ展が終わった。一年ぶり。最近は殆ど発表しなくなった。発表できなくなったというのが実情だ。描けなくなったというのはさらに真実に近い。

描けなくなった理由はいろいろあるような気がするが、一番は何と言ってもモチーフと画材を一度に換えた変えたことだ。モチーフを換えたといっても、自分なりにはそうは思っていず、そこにたどり着いたのだと思っているが、人の目には「あ、また換えた」とかんじられるらしいが、私の場合、同じモチーフがある期間を措いて繰り返し現れてくる。これは意識してやるのではなく結果的にそうなのだ。でも、また換えたのかという言葉は、いかにも一回限りの思いつきだと言われているようで案外につらい。

モチーフは画家にとって極めて重要だ。絵はただ描けばいいのではなく、一つの思想表現でもあるから、それを現わすのにふさわしく、感覚的にも適切なものでなくてはならない。私の場合、モチーフはふさわしいのだが、表現的には今一つしっくりこない。もっと慣れることも必要だし、構成法にも問題はありそうだし、他の問題も含め、その辺がモヤモヤと解決できずにいる。

描けない、発表できない理由はそのモヤモヤ未解決のせいだ。それがある程度見通せたらパーっと十歩くらいは前に行くだろうという予感はあるけれど、未だに予感のままで数年たっている。

リズムについて

風景 F4 水彩 2011

最近出かけることが少なくなったから、相対的に制作時間が増えてきた。これは歓迎すべきことである。画家には制作のリズムが欠かせない。それを忙しさの中にも維持しなければならないが、いつの間にかみずからそれを壊してしまっていたことが、あらためて見えてきた。制作時間が増えれば自然に自分のリズムを取り戻すことができる。

誰だったか忘れたが、人間とは過去の塊だ、という意味のことを言った人がいる。過去とはあらゆる可能性の廃棄処分場であり、今とは単に偶然とか運命としか呼びようのない「可能性の幻」だ。それでは考えたり、努力することは無駄なのか?― 実はそうなのである。動物は決して努力などしない。努力とは人間を動物から分け、自らが人間を含む他の動物から搾取する存在になるために考え出した政治的な嘘の美名でもある。ところが体のリズムはその嘘を簡単に突き破り、私たちもまた動物そのものである事実を否応なく突きつけてくる。

それは自分に嘘をつかず、過剰な欲望を持たず、真摯なる「無目的(無自覚という意味)」に生きるという、動物のごく普通の姿である。もっとも、これではあまりに素朴な人間・動物観だと言われるかも知れないが、どうも原点はその辺りにあることを忘れ過ぎているような気がしてならない。  2011/7/3