災害のたびに思想を深める

今日も熊谷あたりでは気温が36度とか。九州でとりあえず雨が上がったのはいいが、災害に遭った人はもちろん、自衛隊、県市町の職員、ボランティアの人たちも目の前の片付けだけでも膨大な作業量だと思う。災害は一時のことだけでなく、そのあとの精神的な負担、子どもの教育まで含んで、ずっと長く尾を引く。

防災対策、法律を含めた復興支援、教育・研究とハード・ソフト両面の息の長い取り組みが必要だ。そして、そこには「人は物ではない」という無言の大前提が不可欠だ。「命を救う」という一語にも、「死ななければよい」から「人(間)とは何か」まで、二段構え、三段構えの深い思想構造が積み重ねられていく必要がある。

 

こいつも寄生だったのか

手前の草はどうやら奥の植物とは違う奴らしい。買った時はごく小さい部分のようにくっついていたが、やがて成長し、堂々と分離独立した

ハリガネムシという「超」有名な「寄生虫」がいる。昆虫に寄生し、昆虫の行動を支配する。脳内に寄生するわけではないが、脳を支配すると考えられている。

イワナなど川の魚は水面に落ちてきた昆虫などを食べて成長する。昆虫自体はとても優れた生き物だが、世界中の淡水魚のかなり多くが虫を食べて生きていることを考えると、昆虫には随分おっちょこちょいな奴がいるのだなあ、と呆れるのは早計だ。それらは「誤って」水面に落ちるのではなく、これらの寄生虫によって水に飛び込まされている、というのが最近の研究で明らかになってきた。

ハリガネムシのような寄生虫は、最終宿主を目指して、現宿主がそれに食われるように行動をコントロールしているのだと聞くと、にわかに恐ろしいことになってくる。つまり、それらの宿主は昆虫だけとは限らず、もしかして哺乳類、人間にもあるかもしれないからである。

 

絵の中の何を見ているのか

浮かぶ男 と Apple

かたちと色は視覚情報の中心。だから絵画がそれに工夫と研究を費やすのも当然。というのが「常識の罠」。

実際、人はかたちも色も「そんな気がする」程度にしか見ていない。では何を見ているかというと、自分のイメージや記憶、つまり自分自身の反映とそれの「ズレ」を見ているのではないか、と最近考えている。

違和感の無いものは見えない。ズレが大きくなると感覚が鋭くなって、「絵」が見えてくる。ズレはまた、言葉の問題でもあるようだ。