新しい誘惑

今年も似たように花は咲くが、誰も前の花など覚えてはいない

浮世絵版画の背景?に書かれた文字が読めないというイライラは以前からあったので、この際一挙両得ということで、変体仮名の勉強を始めた。(もともと外国語ではないので)覚悟を決めてかかったわりには、読みだけなら、それこそ基本のイロハを覚えれば何となく読める。江戸の庶民は基本的にひらがなしか読めないので、それで浮世絵の中の文字ならだいたい読めることになり、当座の目的は達成する。

けれど、読めるけれどなんの事だか分からない、というのがたくさんある。例えば江戸時代に使われた道具ひとつとっても、現在既に使われていないものについては、それが道具であることさえ分からない。それは江戸時代の文化や社会などについての知識がないからだ。

それを知りたいとなると厄介だ。どんどん深みにはまってしまう。これは危ない。どこかで切り上げないと大変なことになる。しかし、危険というものはたいていいつも興味と背中合せになっているものだ。はじめの一口がいつのまにか大酒飲みを作り出してしまうようなものか。

桜満開、花吹雪

アトリエで花見

満開の桜は外だけではない。見よ、この華麗さを。まさに今が盛り。少し床に散っているが、動かすたびに枝が擦れあって無理やり落としてしまったものがほとんど。花はまだしっかり枝について、絢爛豪華。

どこかで、こっそり枝を折ってきたのではないかとのご心配無用。教室のSさん宅の桜の太い枝が折れ、一部が繋がったまま満開を迎えたのが勿体ないと、そこからさらに2本折り取り、持参してくれたもの。お陰様で毎日が花見(絵を描くのには少し邪魔だが)。

昨日は東武動物公園がチャリティーだけで入園できるというので、妻など動物を見に行った。私も迎えに行きながら、30分ほどホワイトタイガーなど見た。運動不足解消で一石二鳥。それにしても暑かった。

動物公園内も、そこへの道沿いも、どこもかしこも満開の桜で溢れている。けれど誰も、飽きたとも、もうウンザリとも言わないのが、桜の桜たるゆえんか。当たり障りのない、日本人的な存在感の薄さと、もうすぐ花吹雪となり、(少なくとも一年間は記憶からも)消えていく儚さが、自分たちに重なって共感するからかもしれない。

二(ふた)呼吸する

制作中

絵を描くことは気持ちいい。一度中断を経ると、あらためて神経が春の草木の芽のように広がって行くのを感じる。

ある人は身体を揺するだろう。それがダンス。ある人は思わず声を出すだろう、それが歌であり、詩なのかも知れない。絵もダンスに近い。身体から萌え出る何かが、色を選び、形をとるのが絵なのだと、つい感情的に結論づけたくなってしまう。でも、とりあえず、再び一歩踏み止まって、深呼吸することにしよう。

一呼吸したら、もう自由だ。その時心の中にあるものが、だれにとっても大事なことだ、きっと。