秋来ぬと目にはさやかに…

「曼珠沙華」 2020.10.2 4:30pm, Japan

今日は暑かった。日中Tシャツ一枚で過ごしていたが、夕方自転車で散歩に出ると、数週間前の猛暑とはやはり違う。近くの公園の曼珠沙華に、夕陽が当たっていた。写真を撮っていると、そのうえを渡る風の音が、実に爽やか。思わず「秋来ぬと…」の歌を実感した(こちらは目にもさやかだが)。

昨日は月一回の俳句会があった。遊びの句会という甘い考えで、句会前日に無理やりこしらえるものだから、家族は「ねつ造俳句会」と読んでいる(他のメンバーには申し訳ない)。昨日10月1日は「中秋の名(満)月」で、俳句の兼題は「名(満)月」。

句会での最高点は、Sさんの雑詠「購買部文具とならぶ青みかん」。ほぼ満票だった。もちろん私も最高点をつけた。私自身はかなりひねくれているのを自覚しているので、選んでもらいたいと思う気持はほぼない(内容を理解しては貰いたいが)。しかし、最近はメンバーの方が慣れてきて、私のひねくれを、そう感じなくなっているらしいのがかえって気になる。

私の句は兼題に「満月や鯛の眼(まなこ)を吸ひにけり」。意味わからないはずだが、なぜか意外にウケた。先月は、現代日本の政治的無関心の風景をシャープに言い切った(はずの)、「疑心無き微笑の彼ら秋暑し」という自信作を提出したが、0点だった。

「落ち葉」と「枯れ葉」

落ち葉。夕方には虫の声も

連日暑い。今日も西日本では38°超えた地点がいくつかあり、関東でも35°以上を記録。明日から9月だが、近年ではこの時期のこの暑さは、もう珍しくなくなった感じがする。それでも、1週間ほど前から、こおろぎの声を聞くようになった。秋だな、と思う。

庭の木々も草もカラカラに乾いている。午後から久しぶりの雷雨と言うから、期待して空を見たが雰囲気だけ(夜になってから、 10分ほどお湿り程度に降った)。それでも少し涼しい風が吹いてきたから、日暮れに、近所を自転車でちょっと散歩した。

公園の通りはもう枯れた葉が落ちて溜まっている。日照りのせいかもしれないが、目にはいかにも「すでに秋」の風情。ふと、「落ち葉」と「枯れ葉」の違いを考えてみた。

枝についたまま枯れる葉もある。病葉(わくらば)、朽葉(くちば)がそれにあたる。反対に、風雨に叩かれるなどして、緑のまま落ちる葉もあるが、落葉生の木々では、植物自身の生理として自ら葉を落とす。俳句では、落ち葉も枯れ葉もどちらも冬の季語らしいが、落ち葉の方がよく使われるようだ。柿の葉が落ちれば「柿落ち葉」、椎の葉が落ちれば「椎落ち葉」。柿枯れ葉とか椎枯れ葉とは言わない。後者では、なんだか木自体が病気になったように感じられるから不思議。

人間のやることが鬱陶しい?

オジギソウ

すっかりうなだれて、死にかけた植物だ…と思うのは早計。とても健康的に、夕方5時半、もう眠っているのです。可愛いですね。

名前はオジギソウ。朝は早くから、まずシャキンと腰を伸ばす(今はガックリと腰から折れていますが)。それから手のひらを太陽に向け、手の指を一本ずつ開くように、葉の、ギザギザの指のような切れ込みを、いっぱいに開くんです。その手のひらを指ですーっと触ると、くすぐったそうに葉をシュルシュルシュルと閉じる。外出から帰ったとき、玄関前にポカーンと葉を開いているのを見ると、ちょっといたずらしたくなる。すーっと触ると、シュルシュルシュルと閉じるのがとても可愛い。最近とっておきの、私の「癒し」(秘密)。

シュルシュル…の反応が早いほど健康、と自分勝手に考えている。実家には高さ3mほどの合歓の木(ネムノキ)がある。ネムノキもオジギソウと似た反応をすることで知られているが、反応はどうだったか覚えていない。葉っぱの感じもよく似ている。

アトリエの窓辺にも、たくさんの小さな植物たちが生きている。一昨日はサボテンの大きな白い花も咲いた。別のサボテンの小さな花も咲きかけているし、ふちょっちょの木の、大きい真っ赤な花も咲いている。癒してくれるものはたくさんあるのに、なぜか癒されない気持ちも、毎日膨らんでくるのはどうしてなんだろう。