桜を描くのは難しい

       「桜のある風景」 水彩

桜に対する日本人の “熱愛” は “超” 特別だ。その一種の「異常性」が普通の日本人(わたしも含め)には正常と感じられている、という異常性の出発点は「小学校の桜」にあるのではないか、と多くの人が述べている通りだと思う。わたしの知る限りでも、校庭に桜が無いという学校を見たことがない。現実空間には存在しない「デジタル小学校」のようなものがあったとしても、きっと画面のどこかに桜が入っているに違いない、とさえ思う。
 さらに花のタイミング。幼少期の大きなイベントは多く学校に関わることが多い。その中でも入学、卒業は特別な意味を子どもにも感じさせる。その背景にいつも桜がある。東日本大震災は3月だった。震災直後の満開の桜は、その清々しさゆえに喜びよりもむしろたくさんの日本人の涙を誘ったものだった。桜は単に花であるだけでなく、深い心情を伴った象徴でもある。そのことが、モノとして桜を描くことをさらに難しくする。

そういう意味で、ほぼ100%に近い人が、一度は桜を描いた(描かされた)記憶がありそうだ。そしてその90%以上の人が、(ピンクをただ塗りたくる以外に)どう描いたらいいか、悩んだ経験を持っているに違いない。わたしも小学生の頃に感じたそのコンプレックスがずっと尾を引いて、今も解消できずにいる。そのうえ、風景としてはあまりにも普通過ぎて新たな視点を見出しにくい。桜への熱愛に比して、公募展などでは桜の絵がむしろ少なめなのは、きっとそういう理由だろうと思う。

椿―Tsubaki

庭の椿を3枚ほど描いてみた。これまでに何枚この椿を描いたか数えてないが、少なくとも10枚は水彩で描いているはずだから、ある程度までは見なくても描ける。けれど、実際に見るとやはり植物も “生き物” だということをいつもいつも強く感じる。「生(せい)のオーラ」がわたしにも降りかかってくる。

白い花に赤い斑(ふ)の入っているのが美しい。花は大きく立派だが、それを支える “首” のところがなぜか不釣合いに細く、花の重さを支えきれない。だから、ほとんどの花が下をむいてしまう。これは “品種改良” 中ゆえの問題だろうが、 “当事者” である椿にとっては「どうしてくれるんだ!」とでも言いたいに違いない。

おそらく、この椿は赤い花の台木に白い椿を継いだものだろう。その証拠に、ときどき先祖返りして、真っ赤な花が全体の中で1輪くらい咲く。木も「血筋」を主張しているんだろうね。そう考えると、この赤い斑が一滴の血のように見えてくるから不思議なものだ。

ホトケノザ
オオイヌノフグリ
羽化-ペン

今日は23度まで気温が上がった。春というより初夏に近いような日差しで、持って行った帽子、サングラスが役に立った。Tシャツでウォーキング。ジーンズが汗で脚にまとわりつくような感じがした。3日連続のウォーキング。小さな土手を挟んだ川の向こうでは少年野球の練習試合?が2組。昨日も2組やっていた。駐車場は親などの関係者の車で一杯。近くの小学校のグラウンドでも別の子どもたちが練習をやるなど、絶好の野球日和だったようだ。

市営の釣り堀では小学生がデビューしたらしく、まわりに常連の爺さん、婆さんが集まった真ん中でヘラブナの竿を下げている。珍しいこと。長閑なものだ。足元にはホトケノザがだいぶ前から(ホトケノザを真近にみると、結構変わったかたちの花です。また、その名の由来も納得できますよ)咲いている。最近は青く可憐なオオイヌノフグリ、ハコベが増えてきた。ベニシジミはもうとっくに見たが、今日はモンシロチョウも飛んでいた。春だなあ。桜はまだかいな。