りんごと葡萄―iPadで描く

リンゴと葡萄

葡萄は(わたしは)あまり見かけないアメリカ産のもの。よく見かける日本産に比べると粒が密集していなくて、サクランボを何個も一本の軸にくっつけたようなかたちをしている。種名は判らない。

大きな一房ではなく、4,5粒の小さな塊?を2つ3つ入れて、ひとつののパックにして売っている。立派な房ではないから値段も安い。食べる時はどうせ一粒ずつ食べるのだから合理的かもしれない。一房数千円もするような葡萄はやっぱり美味しいと思うが、財布を考えるとなかなか気軽には手が出ない。モチーフ以外の数粒を食べてみた。確かに、やっぱりモチーフ相当だった。

iPadにもだいぶ慣れてきたし、製品そのものの性能向上もすごいと思うけれど、現段階ではまだ実際の鉛筆には追いつけないと感じる。これまで紙のスケッチブックにたくさん描いてきた。そのほとんどは段ボールなどの中で眠っている。けれど、そのスケッチや絵をDMやポストカードに使おうとするとかなり大変。作品選びで部屋中が一杯になり、選択したあとも整理や片づけに、時間もかかるが体力も遣う。さらに撮影にもそれに劣らない時間が要る。せっかくの作品を様々なかたちで世に出したくても、その面倒さを考えるとつい億劫になってしまう。そういうことで、動画でも写真ででも、なるべく制作時に撮影とそのデータ化を同時にすることの必要性を強く感じる。

画像をデータ化しておくということは、これからは現在以上に重要になるだろう。ある意味で、データにさえなっていれば、スケッチや絵そのものより比較にならないほど展開が可能になる。現在、あえて紙と鉛筆によるスケッチを控えてまでiPadでのCGスケッチを続けているのは、単に教室でのアドバイス用だけでなく、そういう意味もある。ただ、時間のかかる絵画の制作(特に大作)は、動画に制作するにはかなり大ごとになり、YouTube でもほとんど見ない。見る側にとってもそういうニーズが少ないということでもあるのだろう。

寂しい口笛

圏央道です。―希望ですか?それとも?ですか―ウォーキング中

なぜ人は歌うのか。わたし自身も誰もいないところで(たとえば運転中)何気なく歌うことはある。なぜか大勢の人の中にいるとき、場とは無関係に、声は出さずに心の中で歌ってしまうこともある。理由がありそうなときも無い時もあるが、結局はそのときの気分次第というしかない。そして、そのときの気分にぴったりの歌を知らないことを、時には残念に思ったりもする。

若い人たちはすごく音楽を聴いている(と感じる)。ある意味で音楽が彼らの日常を支え、励ましているからなのだろう。音楽は彼らの声でもあるのだ。衆議院選挙が近いこともあり、歌と言葉についてちょっとだけ想像を広げてみた。

言葉と歌の距離は、文学史的にはかなり近い。そもそもことばにリズムと音階を載せれば一応は「歌」のかたちになる。で、その歌詞をよく見ると、古代から現代まで政治的メッセージであることは少なくない。たとえばビートルズの「イマジン」。政治性を感じないという方がおかしいというほどのメッセージ性。歌は政治に近い―政治は論理的であるべきだとは思うが、(日本の)「政治」の言葉はそこからわざと、論理からも感覚からもずっと離れたところへ行こうとしているように見える。平俗的?に言えば「当選本位」の「キャッチフレーズ・オンリー」。つまりは「広告」だ。政治(のことば)が広告看板そのものになり下がってしまっている。―政治が音楽や美術などの芸術や、学問を軽んじているから尚更だ。

政治家が好んで取り上げる「文化」といえばせいぜいスポーツ。「東京オリンピック2020(事実は2021年)」期間中、某総理大臣がわざわざ官邸に記者を呼んで、金メダリストにお祝いの電話をかけるパフォーマンスを繰り返した。これを見て多くの日本人は、自分の股間を人前で何の羞恥心もなくさらけ出しているような、いわば21世紀の日本がまだサル(猿)の社会のままであるかのような精神的屈辱を味わわされたのではないだろうか。少なくともわたしは、ニュース画像中の得々とした彼の顔に、サル(猿)のマスクを重ねないでは正視出来なかった。新首相はまだマシかと一瞬思ったが、もう忘れかけていた「アベノマスク」の「生地の新調」に過ぎなかったので、やはり「アベスガサル芝居・第二幕」の幕開けだったのか、と腑に落ちた。

人はなぜ歌うのか。それは人はなぜ絵を描くのか、人はなぜ学問をするのか、と同じ問いだ。世界がどうあれ、日本の政治がどうあれ、わたしたちは若い人も、老人も、とりあえずは「明日も明後日もあるものとして」生きていく。明日のことは判らない、でも、明後日のことなら歌ってみたい。―――歌は自ずから・・・と書きかけたが、せめて明後日のために―寂しい口笛になってしまった。

プラトーン的生活様式が復活?

公園の水飲み場

それまで体調の良さを謳歌していた9月ころから、なぜか徐々に腰が痛くなり始めた。お尻や腿の裏、向う脛などに坐骨神経痛特有の痛み。10月になると、腰を真っ直ぐ伸ばせなくなる日も出てきて、ウォーキングも休みがち。そんな状況で展覧会が始まり、最終日(10月16日)には腰をかがめて画廊に辿り着く、という状況にまでなった。終わった翌日は「歩行困難」。ちょっと、無理しちゃったなあ。―終日寝ながらスケッチやエスキースをしていた。

寝ながらスケッチ?―今は誰でも寝転びながら絵を描ける時代なの―iPadなどのタブレット端末でね ― 上半身を起こすことさえできない障害者が、寝台に絵の具箱をくっつけ、家族の介助を得ながら油絵を描く映像を見たことがある。どうしても油絵具でなければならないとかいうのでなければ、現代はタブレットなどを使って絵を描くことは容易な時代になった。わたし自身も、仮にこのまま下肢がダメになっても絵を描き続けられることには全く疑いを持っていない。鉛筆1本だって絵は絵だし、ましてや色まで「寝たままで、一瞬で」塗れるとなれば。

彫刻家だって3Dプリンターを使えば作品を作れないわけではない。建築家が実物の建築をプリンターで造った例もあるし、本物の戦車をつくって路上を走り回り、逮捕された物騒なやつさえいる。テロリストグループが機関銃をプリンターでこっそり量産できる時代だ。最近3Dプリンターが話題にならなくなったのは、それがもう珍しいことでは無くなった、ということなのでしょう。文明の利器に感謝?です。

ベッドに腹這いになって描く。腰に負担はかからないが、ぶら下げる腕の使い方に慣れてないので1~2時間で肩が痛くなり、続けられない。ゴロっと反対向きになって映画を見る。見終わったら、またスケッチや絵を描く。エスキース程度なら、これまでも腰が痛い時など腹ばいでスケッチブックに描くような場面もあったが、コロナによって、そんな場面(時代)が今後日常的な姿になると確認できた。古代ギリシアでは、市民は寝たままで食事をし、寝たままで勉強、議論したようである(用事は奴隷にやってもらう)。コロナ禍前は想像もしていなかった「古代ギリシア的・プラトン(のアカデミア)的」な生活様式である(ただし、いずれにしても奴隷!はいない)。