オレンジピール

クッキーかなと、頂いたピンクの袋を開けたらオレンジピール。春になったのを感じた。妻の実家には夏ミカンの木がたくさんあり、子どもがまだ小さい頃は休みの度に連れて行き、その実をもいだものだった。

自分の頭ぐらいの大きな実をもぎ取る体験が非日常的でエキサイトするから、使う目的も無くやたらに摘み取ってしまう。ある日、山のように盛り上がった夏ミカンをどうしようか頭の隅で悩みつつ、オレンジピール作りを子どもに持ちかけた。ガス代とグラニュー糖代の方がかかるとの反対を押し切って、はじめて二人だけで作ってみた。苦みがあり、チョコレートも無かったが、とても喜んでくれた。どっさり作ってしばらく楽しんだいい思い出だ。

それ以来、子どもを喜ばすことなどやってあげた記憶がほとんどない。自分のことだけで一杯一杯だった気がする。いまさら反省したって遅いが―「へぇーっ、チョコレートのボリュームがすごいね」と息子。やっぱり買ったものとは違うね、と妻。「これは夏ミカンじゃないね。苦みがないもの」とわたし。

ああ、気持に余裕がないなあ。気分的なものだけでなく、すべてに余裕がなくなってきた。生きている残り時間も含めて。せめてわたしも、何か美味しいものを自分で作るだけの気持を取り戻したいなあ。

スケッチ

気が滅入ることだらけ。社会的にもだが個人的にも。自分だけで解決しなければならない問題もあれば、自分ではどうにもできないこともある。

自分ではどうにもできないことは放っぽっておくしかないのは解っているのに悶々とする。そのくせ自分で解決しなければならない問題にはいつまでたっても手をこまねいている。そして勝手に滅入っている。典型的な馬鹿の自画像。

いや、このスケッチのことじゃない。これはそうした硬い雰囲気の中で、少しでも体を動かして自分をリラックスさせようとして描いてみたものだ。中身はどうでもいいが、描くこと自体に意味がある。スケッチというのは有難いものだ。描いているうちに身体から緊張が取れていく。慣れた動きに、脳が反応し、それが身体にフィードバックされて筋肉が弛緩する、そんな感じ。

コーヒーの朝

今朝も美味しいコーヒーができた

「コーヒー」が売れているのだそうだ―インスタントではなく、豆や粉が。コロナが世界を小さく閉じ込め始めてから。人々が外へ出かけなくなって、やっと自分の時間を取り戻し始めているということにもなるだろうか。

世界経済は停滞気味、かといえばそうでもないらしい。もちろん、これまでの働き方、ビジネスの仕方では大幅ダウンの企業、業種はあるだろうが、たとえばこのコーヒーのように、「個人」に関わる度合いの大きな業種ほど空前の利益をあげているようだ。先進国?の中では、日本以外では横ばいかむしろコロナを機に業態転換、経済構造の変革によって良い経済循環になっているとも聞く。

経済評論家でもないのにこんなこと書いても仕方ない。―コーヒーを淹れ始めるようになって1年近く、やっと「コーヒーの味」が判るようになってきた、ような気がする。それまではインスタントコーヒーのがぶ飲みで、それでも「まあ、コーヒーってこんな味だよ」と思っていたが、今からみるとそれらはまったく「経験智」にならなかったのだった。

お茶も同じことだろう。味の分かる人は美味しいお茶を飲み、こんなもんだと水代わりに飲む人にはそれなりにしか判らない。考えてみればコーヒーやお茶に限らず、すべてのことにそれは言えるのではないだろうか。一杯のコーヒーはわたしに平穏と静かな積極性を与えてくれるようになった。―ウクライナで戦う両国の兵士たち、逃げ惑う市民たち。一刻も早く、彼らにも深い一杯のコーヒーをゆっくり味わえる日が来ることを心から願う。