解像度を上げる

若い人を描く(水彩)

カメラやモニターなど視覚機器には「解像度」という用語がある。簡単に言えば画面の密度。高いほうが画面鮮明と、おおざっぱにイメージすればよい。解像度を上げれば画面はきれいで滑らかになるが、そのぶん他の機能に負荷がかかるので、なんでもかんでも解像度を上げればいいというわけではない。

でも、ここでのそれは(自分の)「頭の解像度」。もう少し上げたいなあと。そのぶん、他に多少のしわ寄せがきてもやむを得ない。

これまで「低解像度」で過ごしてきてもべつだん不都合を感じなかった。それはたぶん特に何も求めてこなかったことの裏返し。のんのんと自己満足に浸ってきたということになるのだろう。なにか具体的なことを達成しようとすれば、ある程度きちんとした理解が必要になる。たんに流れを理解するだけでなく、実際にテストし、失敗を検証する場合もあるだろう。それらのひとつひとつが不鮮明では、結果にも確信が持てなくなるのは当然だ 。

そこまで構えなくても、一つ一つ、ピンと理解していきたいものだなあ、という願望(希望)がある。最近視力が弱くなってきたことと反比例の感覚があるのかもしれない。「こんなにぼんやりしているのを、今まで見えた気でいたなんて怖いな」。

無題

今日は篭を描いていた (制作中。左の筆は見せかけだけ)

今日は水彩で篭を描き、撮影の練習もしてみた。絵を描くのはいいとして、撮影などは苦手だ。カメラを使う割にはカメラそのものにあまり興味がなく、したがって知識も薄い。いい加減に使うから結果もそれなり。だから興味が湧かない・・・の悪いループにはまり込んでいる。自分にとってカメラを使うことは必須なのだから、興味云々ではなく知識・体験を得ることも必然なはず。なのにそうしてこなかった。逃げていたのだ。

いまさら、ではあるが、日本人の平均寿命からみてこの先まだ10年は生きる可能性がある。その10年のうち何年かけたら、ちゃんとした撮影知識が身につくかは心もとないが、やった方がたぶん楽しく過ごせるような気がしてきた。本当にいまさらだ。尻に火が付いていることにさえ気づかず、それが消え、焼けぼっくいも過ぎて灰になりかかって、やっと気がつくこの鈍さ。「気づくのが遅すぎますよ」とある人に言われてからでも20年も経っている。

撮影が苦手(特に制作中の)なのは、一つには「描き方をカメラに合わせる」からだ。写真では紙をテーブルに貼り付けてある。カメラが固定されているから、それに合わせているわけだ。普段はこんなことしない。紙は上下左右、その時々で描きやすい方に傾け、回転させながら描く。水平にしたり、立てかけたりもする。紙を固定するだけでまるで、磔(はりつけ)台上の罪人にされたような気分になる。

普通は2~3台のカメラで撮影し、その時々でいいアングルのカットを使うものらしい。けれどわたしは1台しか持っていない(スマホも入れれば2台?)し、なにより狭くてそんなスペースがない、などという泣き言はどこにも通用しない。―必要なら何としてでも確保せよ―確かに仰せの通りでございます。わたしが悪うございました。
 けれどまあ、撮影がうまくできなくたって、とりあえず1枚描くきっかけにはなったじゃない。というところで、チョンチョン。

日曜日

水彩で制作中  (写真に頼らず、見て描くことを大事にしている)

今日はカメラからパソコンへのデータ転送とカメラのメモリーに空きを作っていた(メモリーカードを買えば済む話だけど)。

カメラはいつでも使える状態にしておかなくてはならないから、データ転送を優先する。転送とデータ削除を切り替えながら、ついでにパソコン内の他の写真、ビデオも保存するかどうかチェック。最近の課題なのに、こんな画像があったことをもう忘れていた。

描かないとすぐ忘れてしまうし、描けなくなる。年を取れば誰でも目は衰えるし、手も震えてくる。ひとつ覚えるのにも時間がかかり、せっかく覚えても、そばから忘れていく。「衰え」が「いい味」になるには別の次元の能力がたぶん要る。しかも、練習して獲得できるものでもないような気もする。

でも、まあ、そんなこと考えたってどうにかなるものでもない。気が向いたら、とりあえずまた何か描いておこう、そんな気になった。