お金がないよ

ギリシャ風の皿のある静物 水彩・F8

「もうお金がないよ」と妻に言われるとドキッとする、どころか急に息が苦しくなり、心臓のリズムも乱れ眩暈がする。

そう言われても無いものは無いのだから仕方がない。「困ったね」と、コーヒーをこぼさないようにしながら、とりあえずそそくさとその場を離れるしか選択の余地はない。いったい誰がお金などと言う無粋なものを発明したのか、などと恨んでもはじまらない。

お金という概念の存在しないところで、一人で、魚を釣ったり、適当に畑を作って何か口にしながら好きなことをするのがいいな。そしてある日どこかで倒れたままあの世へ行く―無人島で一人で暮らす、といえばデフォーの「ロビンソンクルーソー漂流記」を思い出すが、漂流する直前までの彼はそこそこの貿易商人で、れっきとした経済合理主義者である。その本をネタにした経済学の研究や本もたくさんある。ドローンでどこにでも商品が届くようになると、狂人になるか深海の底にでも潜る以外、お金というものから逃れるすべはなさそうに思える(水中ドローンというのも急速進化中だから、深海底でも油断はできない)。

「もうお金がないよ」と何度言われても、その恐ろしい響きに慣れることができない。そのたびに息が苦しくなるが、やっぱり現代に生きている以上、慣れてはいけない言葉だとも思う。そのつど心臓を傷めるが、お金のストレスによる眩暈にペースメーカーは無力である。お金という特効薬以外に効く薬も無さそうなのである。

秋の夜は

秋の静物を描く

今日(11/20)は曇りの予報に反し、一日前の予報のような雨になった。11月は関東の平野部では穏やかな日が多いが、雨が降るとやはり冬の近さを感じる。

夏の暑さの中では赤い色など見たくもないが、秋も晩秋に近くなると(そういえば立冬をすぎているのだから、もう冬なのだった!)暖かい日の光を感じさせる柿の赤やオレンジ色が恋しくなる。朝はともかく、夕食には食事も鍋や暖かいものが食べたくなる。

そんなわけで、画面の真ん中に赤がどーんと坐るような配置で描いてみた。コリンキーという名の “生で食べられる” というカボチャの仲間で、名前から想像してイタリア野菜だと思っていたが(事実、イタリアやフランス料理の食材としてよく使われるという)、原産地はどうやら南米らしい。南米といってもアンデスとか、高地は寒いらしいからそれはそれで似合うと言えば似合うかもしれない。

一日の長さは24時間で、夏も冬も変わらないのは解っているはずなのに、秋冬は一日がどんどん短くなっていくように感じる。俳句でも「短日」「つるべ落とし」と、日中の時間の短縮を嘆くような気分の季語がある。ちゃんと24時間あることを感じさせるのは「夜長」。これから数か月、長い夜の中で、わたしたちは何を考えるのだろうか。

西洋梨と杜若(かきつばた)

西洋梨と「かきつばた図」のキャンディボックス

教室でのデモ制作。今年もぼちぼち西洋梨のシーズンになってきた。何度も何度も描いているモチーフだが、飽きるということは(少なくともわたしには)ない。毎回それなりの課題が現れ、いつも自分なりの新しい答えを求めていくからだろうか。

それでも、毎回ちょっとずつモチーフのバリエーションなり、表現法のチャレンジなりの変化が欲しいのは、自分もまた見る側でもあるから。今回は普段はパソコンの前にある、折り紙のキャンディボックスをアクセントに置いてみた。色合いも良く、適当な技術的課題もあり、楽しいモチーフになった。ただ、少し細かいことをいうと、これが何であるか絵からは分からない。「キャンディボックス」という名前も、特にそういう用途があるわけでもなく、ようするにただの紙の箱をわたしがそう呼んだだけ。紙製かどうかも絵を眺めただけでは判別できない。技術的課題というのはそのことを指しているのだが、どうやらそれはクリアできていないようだ。

この六角形の箱は、俳句の仲間のAさんに句会の時に頂いたもの。Aさんは折り紙をよくされ、施設などで指導することもあると聞いたような気がする。折り方を見た時、これはオランダ・ダールマンズのワッフルボックスと同じだと思い出した。中身よりこの箱(の折り方)に惹かれて田舎へのお土産に買ったことが何度かある(ただし、日本で)。紙には尾形光琳の「国宝・杜若(かきつばた)図屛風」のプリント。蓋つきになっていて手が込んでいる。

水彩画(特に小品は)紙の白を残すのが大事だとわたしは感じている。白は(黒も)すべての色を引き立たせる、極上のスパイスだと思う(油絵ではキャンバスの白を残しても全くその効果がないのは不思議なこと)。ただ、時間が経って紙が黄ばんでくるとその魔法が解けてしまう。この絵のように白の部分が広い絵では、額に入れるガラス、アクリル板には紫外線カットのものがおすすめです。