Pen と鉛筆(1)

フェルトペンのスケッチ例

pen と鉛筆はどう違うのか?ペンはインクだし、鉛筆は…黒鉛だろ?でほぼ合格点といっていいだろうが、純粋な黒鉛で描く鉛筆(黒鉛を箸で挟んだような感じ)は極めて初期のものだけで、現代はそれに粘土を混ぜ、焼成して作られる。粘土の割合が多くなればH,2H,3H・・・と硬くなっていく。15Hくらいまでは案外普通にあるらしい。

ペンはインクを使うのだが、紙とインクの“あいだ”にあるのがペンで、鉛筆より間接的だということが、ペンを使う時にチラッと頭をかすめる。“漬けペン”というのがある。インク壺にペン先を突っ込んで原稿用紙に向かう、なんて映画などで昔の小説家が煙草をくわえながらやってるのがそれ。鳥の羽を採って、軸に切れ目を入れた羽根ペンや、漫画家の使うGペン、細密な丸ペン、ガラスペンなどもその類(ガラスペンは筆記具というより、すでに工芸品)。鉛筆の方も色鉛筆、水彩色鉛筆、ワックス鉛筆、クレヨンと多彩な顔触れになっている。

ちょっと話の方向を変えるが、現代において一般的に使用されるペンは、大きくボールペンとフェルトペンに大別される。漬けペンはすでに古典的で、やや趣味的、アート的な場面でしか使われないと言っていいのではないか。この二つの中ではフェルトペンの方が“原始的”。原理としては液体に布や皮の一端を浸し、毛管現象で這い登ってきたインクを紙に擦(なす)り付ける方式。要するに「筆」の現代版。ボールペンはインク壺をステンレス製のボールでいったん塞ぎ、壺側についたインクを、ボールを壺に密着させたまま回転させることで曳きだし、紙に押しつけるもの。近代的アイデアの勝利。原理は単純だが非常に精緻な技術が必要で、こちらは純然たる精密機器―それが100円もせずに買えること自体が凄いという気さえする。市販のボールペンはひと昔前のものに比べると、格段に書きよくなっている。

で、ペンと鉛筆、どちらが優れているか、と択一論に傾きたくなるのは解るが、それは結局各自が決めることだ、というしかない。デリケートな明暗のグラデーションを望むなら鉛筆に勝るものはない。濃く、安定した、一定の太さの均一性が必要ならボールペンがベスト―そのために作られたものだから。紙との摩擦感、ある種の描画感を味わうならフェルトペンが良い。ボールペンよりほんの少しArtistic ?―だが、どちらを使おうと道具である以上、たとえばArtなら経験・修練がモノを言う世界。文章を書くならどちらにしても剣よりは強い―が、それはデジタルにした方が今は効率良さそうである。

モチーフ(制作の動機)

シンクの水滴

絵画で何を描くか。小説で何を描くか。音楽で何を描くか。記者が何を記事にするか。政治家がどんな社会を描こうとするか・・・対象はバラバラ、雑多なように見えるがカクテル光線のようにいろんな波長の光が重なって、そこが立体的に浮かび上がって見えるところがきっとある。

皿洗いはわたしのルーティンのひとつ。食器がシンクに溜まっているのがタマラナイ。坐りっぱなしの生活時間が長いから、脚の血行回復のために、時どきは立つ(stand up)必要がある。ぼんやり立って、踵上げくらいの運動でもいいらしいが、それと皿洗いを合体させた。英BBCの人気番組に“キッチンでダンス”というのがあるらしい。中身を子細に見たことはないが、要は“皿洗いを楽しいダンスの時間に”ということのようだ。リズムよくお尻を振り振り、食器洗いが健康にもなるという発想はわたしと同じ。皿を洗いながらわたしも開脚したり、腰をひねったり。洗う食器や鍋の量が少ないと、かえって運動不足になりそうな気がしてくるから習慣はおソロしい。

そして毎日見るのがこの「風景」。毎日見ているようでも、二度と同じものを見ることは出来ない。事実も真実もここにはすべて在る。絵画、小説…社会、政治などの、どの分野にも深く重なっている。定点観測のように、これを毎日毎回写真に撮るかスケッチしたら、きっとドエライものが出来ると思いながら、いまだに一枚も(最低1枚は撮った)撮らず、スケッチもしていない。―特別なモチーフを探す必要などどこにもなく、こうやってごろりと目の前に転がって、わたしを下から窺(うかが)っている、のだった。

モチベーションを維持するって大変

人物習作(水彩、F10)

motivation-モチベーションとはやる気(の元)のこと。やる気満々の時はやるのが当たり前という感じで、「維持する」などというイジイジした気分など想像もしない。ところが、小さな失敗が続くとか、環境が変わってなんだかやりにくくなったとか、とにかくもろもろの理由で順調に進まなくなったとき、わたしも含め、多くの人は一時的にせよやる気が低下する。

モチベーションが上がらないといっても、たいていはいろんな理由で望む結果が得られなくなる→達成感、幸福感が得られない→続けることが苦痛、ということだろう。望む結果が得られるなら、たぶん悩んだりはしない。

人間というのはよっぽど欲の深い動物で、同じ(ような)結果が続くと、それ自体が不満の種になるから厄介だ。たとえば陸上競技などで毎回2位だとしよう。異なる大会でも毎回2位というのはかなりの好成績。しかも人間だから体調のいい時ばかりではない。それでも毎回2位というのはわたしなどは凄いと思うのだが、1位が望みならばやはり不満だろうし、「いつも2位」は慣れてしまって達成感には程遠いのかもしれない。問題は周囲。「残念。あと一歩」とか「次は1位だね」などとの激励が逆効果で、本人を達成感から引きずり下ろしてしまう。そしてその残念感がいつしか本人のこころに棲みついてしまう。そんな風に想像する。

モチベーションを他人との比較でしか得られない人、特に各種競技の選手などはそういう意味で過酷な環境にあると言えそうだ。こんなふうに言うと、自分はすでに悟りの境地にいるかのように思われそうだが、わたしもそこから脱することは全然できない。ただ、最近は人との比較(はするが)より、自分の人生の残り時間との中でモチベーションを考えるようになってきた。山に喩えると、頂上という具体的な結果よりも、どの高さから風景を眺めたいか、という一種の“自己満足派”に移りつつあるようだ。自己満足とはいえ、そこへ行くにも小なりとも幾多のハードルがあり、そのいちいちを越えるごとにちょっとした喜びを味わう。やっても無駄かなという、とんでもない「虚無」が持ち上がってくると、やる気ガタ落ちになるが、とりあえずそうやって“プチ”満足でやる気を維持しているようである。