ピンクと桃色、ベージュと肌色

ピカソ「ギターと楽譜のある窓辺」

絵を描きながらふと考えた。ピンクと桃色はどう違うのか。絵を描く人ならもちろん、「ピンクはクリムソンレーキ+ホワイト」「桃色はバーミリオン+ホワイトだろ?」などというでしょう。でも、「同じ色だろ?」と言う人の方が、実は多数派かも知れません。

 「色を使う経験の少ない一般の人には、もしかして同じに感じているのではないか」とふと疑問に思ったわけですが、その時点ですでにわたしは「ピンクと桃色は違う」と宣言する少数派に属すことになります。「同じだろ?」というふうにわたしには見えないのだから仕方ありません。当然その逆もあるわけで、問題はなぜそういう色感の違いが生まれるか、ということになるでしょう。

 わたしの記憶では小学校4,5年生くらいになって、初めて水彩絵の具を使った(それまではずっと鉛筆とクレヨン)。今は学校によって違うが1,2年生ごろから使うらしい。そんな年齢のころ、色の名前をどう呼び、どんなふうに混ぜて描いていたのだろうか。
 色の名前と実際の色を一致させることは、一般的に想像されているより、たぶんずっと難しい。TVやラジオの放送などを聞いていても、「エメラルドグリーンの海」とか「コバルト(ブルー)の空」とか、いかにも「識ってるよ」ふうの実際の色名を出すが、聞いている人がエメラルドグリーンやコバルトブルーを知らなくては価値半減である。
 児童用に「ちゃいろ(「つちいろ」と書いてあるのもある)」とか「はだいろ」など、すでに混色したものを色名としてセットに入れてあるのもある。そういう“おとなの眼から見た「子ども」的命名法”は(専門的にみると)正直、問題だと思うが、かといって「クリムソンレーキ」だの「バーミリオン」などの専門用語を使うのも、それはそれで、問題だろう。そして結局、色の知識と訓練は損なわれる。「美術は知識を得るものではない」からだと思う。

 ともかく、そうやって本当の(?)色と色名に関する初歩的な知識も訓練もないまま社会に出る大人に、「ピンク」と「ももいろ」の区別は想像以上に難しいのかもしれない、と思い直した。そこに「はだいろ」を加えると、ピンクと桃色の区別に輪をかけてこんがらがってきそうなことは容易に想像がつく。「ベージュ」は、どちらかといえばたぶんファッションやインテリア関係の用語で、絵画の中ではほとんど使われてこなかった色名である。少し難しくなるが「シェード」などもそれに近い呼び方だろうと思う。特別な例だろうが、「らくだいろ」というのを見たか聞いたかした記憶がある。一般人が色の名前と色をどのくらい判別できるかは、何気ないようだが案外深く文化の質に関わっているような気もする。

 ところで、このピカソの絵では、いま述べたような色がぜんぶ使われている、可能性がある。「ここはピンクだろ、これはベージュだろ、こっちは桃色」などとぶつぶつ言いながらピカソがこの絵を描いた、とまでは想像しないが。

Good, Better, Best って覚えてる?

「ポインセチアのテーブル」  水彩 F6

ポインセチアを続けて描いている。描くごとに自分でも、勘どころというか、コツというか、こう描けばこう見えるという効果?が分かってくるので、「じゃあ、こうしたらどうなるかな」という現実的なトライがし易くなった。“持ちのいい”(植物だ)からできること。折れてもこの通りだもの。

描いたあとでアッと思ったことが2つある。

一つは水差しの把手上端部。本体との取り付け部分に影をつけ忘れた。このままでは把手が斜めに付いているように見えてしまう。2つ目は青いリンゴ(に見えるかな?)の入った大鉢。手前側を(リンゴの半分が隠れるくらい)もっと大きくするべきだった。把手の影はあとでもつけられるが、鉢のほうはもう直しようがない。もうちょっと考えるべきだった。

ポインセチアの表現だけにとらわれて、頭が柔軟に働いていなかった。でも大丈夫。これはスケッチだ。仮に作品化するなら、その時に今の反省を活かせばいい。とりあえず、描いたことが Good. これを自分なりに変形、アレンジできれば Better 。これだ、という表現ができれば Best 。中学生の時、英語の比較級表現を勉強しましたよね(たぶん)。こんな時に使えるのかなって・・・。(えっ、違う?どうしよう‥)

青いカモメたち

sさんの練習帳から
Tさんのフェルトペンによるスケッチ
Tさんのフェルトペンスケッチ2

青いカモメの絵画教室の2つのクラスの人の、Sさんは個人練習帳から1枚、Tさんは先日のスケッチ会のものを2枚ピックアップさせていただいた。

Sさんの水彩スケッチは、難しい対象を選んでしまったかもしれない。モチーフの実物も見せてもらったが、ほぼこの通りだった。微妙な色のグラデーションで、そのうえややドローンとした図柄。ひとことで言えばちょっとデザインが良くないのだが、それはSさんのせいではない。しかも描くために選んだのではなく、必要で買ったものを描いたまでのこと。よく描いてある。このような素材を、時間を括りだしてはコツコツと自らの練習台にしている。継続は力なり、をかならず体験するはずだ。
 Tさんのスケッチには、子どもの絵のような楽しさがある。本人的にはともかく、一見遠近法を無視したような描き方が、そんな感じを強く引き出している。透視図法的な感覚がしっかり身についていないせいもあるが、仮にきちんと正確な図法で描かれたら、この面白さ(不思議な空間体験と言えばいいんだろうか?)がもっと出るかと言えば、たぶん真逆だろう。絵画の奥深さはじつはこういうところにある、と思う。

写真のように正確な描写、技法・図法・色彩理論などの正しい理解、それは確かに人を納得させるには必須の条件だった。少なくとも多くの人々が比較的「無知」であった近代までは、視覚を通して“教育”するのが絵の役割の一部でもあったからだ。「客観性」がなければ教育は説得力を持たないから当然である。
 ところが、現代では「人間というものはよく解っているようで、実はよく解らないところがある(変な)生き物だ」ということが、以前よりずっと分かってきた。人間への理解が深まるほど、一方で謎はむしろ深くなってきたのである。やや極端な言い方をすれば、明日、自分が何を考えるかは、その時になってみなければわからない。「客観性」と「主観性」の境目が再び曖昧になってきているということでもあるだろう。

そのような人間理解のなかでは、「人間の物の見え方は透視図法だけが正しい」などと主張する方が「正しくなさそう」である。透視図法や写真的正確さは、比較的説得力のあるひとつの表現法だ、と考えておくのがせいぜいで、そこにこだわって良し悪しを判断するのは適切ではなかろう。もちろんSさん、Tさんの描き方が正しいという言い方も、同様の意味でおかしい。―これは確かにわたしの絵だけれど、まだ「わたしはわたし」と言い切るまでの自信はないわ、とそれぞれの絵が小声で語っているのも正直で好ましい。