3つのデビュー

「どこかで見た街」 フェルトペン

今年2022年もあと3日。今さらじたばたしたって始まらないが、終えたいものはいくつかある。いくつか?いや、たくさんある。夏休みが終わる前日、目の前の宿題の山を前に母親のせいにしている小学生のような気分だ。終えたいが、終わりそうもない。

終わらないのとは逆に始まったこともある。我が家では今年3つのデビューを果たし(そう)た。ひとつは息子の社会人デビュー。いろいろ苦労したが、何とか楽しそうな(?)会社に就職。まあなんとかやれているらしい。二つ目はとうとう妻のスマホデビュー。といっても(今日現在)まだ手に載せて、撫で撫でしているだけ。何一つできないが、まあデビューということにしておこう。

3つめはわたしのYouTubeデビュー。噓でしょう、と言われると困るが(実際のデビューは昨年9月だから)、本気デビューは今年からということで、妻の分と平均すれば?3つのデビューと言って、いいんじゃないかな?

先日、息子に初めて3Dプリンターが動いているところを見せてもらった。出来上がった製品?も見たが、なかなか精巧なものだ。10年後には小学生の授業でも普通に使うようになると彼は言ったが、それまでこの国が持つかどうか心もとない限りだ。もちろん安全保障の問題などではなく、頭脳の方の問題で。岸田政権を見てごらん。大臣デビューの連中が次々と更迭。そして防衛予算43兆円?バッキャじゃなかろうか。それに野党も賛成なんかしちゃって。世界の中での日本の頭脳の老化ぶりが凄まじいが、それを維持(支持ではなく)する国民の認知症レベルや如何。ああ、来年がすでに思いやられる。

ハンディ

「飛ぶ男」

「ハンディ」と言えば「便利」という意味が思い浮かぶが、今日のハンディは「ハンディキャップ(handicap)」、不利な条件とか身体障害(者)のこと。

ハンディキャップのある人に対する社会的なケアは、理想からはまだまだ遠いとはいえ、日本だけに限って言えば10年前、30年前、50年前、100年前と比べて、全体としては前進していることは確かだろう。けれど、それは政治家のおかげではない。確かに制度を法律として決めるのは議員だけれど、そうしないと当選させないという民意の圧力のおかげだ。

わたしも実はその民意の圧力のおかげを蒙っている一人。障害の一番軽いクラスだから、当然利用できる範囲もそれほど広くはないが、100 km以上の鉄道利用について基本運賃の50% の割引がある(あっても利用できる人の体力の方が…)。ただし今般のような政府がかりの「(行け行け)go to」キャンペーンのような場合はその対象にならないことが多い。あくまで日常の範囲に限られる。そこにはハンディキャップに対する「公平性」の圧力がかかっているからである。
 「公平性」は現代社会の「正義」である。何者もこれを曲げることはできない大原則であって、曲げるためにはやむを得ないと思われる「ハンディキャップ」か「特権」が要る。「正義は厳しい」のだが、人もそうである必要はない。
 日本中に子どもが溢れていたころは、年齢の離れた子も近い子も(ときには大人も)一緒になって遊んでいた。そこではハンディキャップがむしろ「公平性の保証」だった。中学生からまだ入学前の幼児までが、同じゲームを一緒に楽しむためには不可欠な考え方だとさえ思われていた。審判員などいない「遊び」のなかでは、どこの空き地でも、年長の子が知恵を絞って、上手に一人一人にハンディ(キャップ)を与えたものだった。そうやって自然に人間観察の眼を養うことができた。

社会の中で、制度としてのケアは確かに前進してきた。一方で少子化が進み、同世代でさえ一緒に遊ぶ機会がどんどん減っている。公平性の理念に縛られ、弾力性が失われてきているように見える。いやいや、こういう言い方は危ない。すぐ統一教会か自民党あたりに利用されそうだ。先日電車内で、内部障害があることを示す「ハート・プラス・マーク」を、リュックに下げた少女が障害者優先席にいるのを見かけた。世界中の子どもの寝顔を知っているサンタさんに、ハンディのある子にどんなプレゼントをするのか聞いてみたいものだ。

動画の向こうから聞こえる

ちょっとしたドラマ

今日はクリスマス・イブ。わたしたち家族は一足先に昨夜、ちょっとだけ外食で済ました。そのあとブログを書いて寝た、つもりだったが今朝見ると「ない」。アップロードしたつもりで、そのまま夢の中へそれを持って行ったらしい。

動画らしい動画を意識して作り始めたのは2022(今年)の6月頃から。YouTubeチャンネル開設は2021年9月だが、それからしばらくはCGスケッチとそれをアップロードするまでの手順の練習しかしていなかった。6/28に開設以来の視聴1000回。回数など気にするレベルではまだ全然なかったが、なんとなく嬉しくなってこのブログで報告した。8月末に2000回。いま12000回を越えている。最近は特に加速して3日で1000回に達する。単純計算すると、1日あたりの視聴回数が6/28時点の100倍になったことになる。

人気チャンネルだとアップして1時間も立たないうちに数万回になるものもある。そういうものと比べると小さく見えるかも知れないが、それでも一日に数百人という人が視聴してくれるというのは凄いことだと思う。「YouTubeは暇な人が見る」という人もいるが、必要で見る人も案外少なくないのではないか。視聴回数などの増え方を見ていると、視聴者はより高密度、より効率的なものを、強い欲求で求めているように感じる。けっして暇を持て余し、どうでもよい動画を眺めているのではなく、むしろ「時間というコスト」を厳しく追及する人たちが、現在の自分の要求にぴったりのものを探しまくっている姿が浮かんでくる。

動画を作っていると、「もっとちゃんとしたの作ってよ」「もっと効率的、もっと解りやすく」という欲求のオーラがデータから放射してくる。数が大きくなると、その声も姿もわたしを揺らし始めるようだ。作る側はその声に応えるとも押されるともつかない気持ちで、次の動画を作り始める。もしかして、ステージ上の歌手と観客の拍手もそのようなものだろうか。
 YouTubeのクリエイター向けの動画がある。その中に「体を壊さずに作るには」というのがあった。確かにそう。大きな欲求に応えようとすればするほど、時間も体力もそこに吞み込まれそうになる。限度というものがない。今日はクリスマス・イブ。