絵画のイマジネーション

編集中のビデオから

あなたが絵を描いている人だとしましょう。あなたの絵を描く頻度はどれくらいでしょうか。ふだんは描かないが、旅行に行くときは必ず小さなスケッチブックを持っていく人。月に1枚くらいは花やペットなどを描く人。一年または数年に一枚くらいだが、興が乗ってくると一度に十枚くらい描いたりする人。絵画教室や講座に通っていて、定期的に描く人など、きっとさまざまな絵画ライフがあると思います。

満足度100%に描けることはないとしても、半分の50%以上は、描いたこと自体でも満足できるでしょう。でもそれだけでなく、たとえば旅先での一枚のスケッチは、もしも時間切れで未完成のままだとしても、それを見るたびに前後の出来事までをも記憶の中に湧きあがらせてくれる、自分だけの魔法の箱を作ったようなものでもあります。あなたもきっとその蓋を開けるたび、不満足だった残りの部分を補う以上の愉しみを密かに味わったことがあるに違いありません。
 (旅先でのものに限らず)そのようなスケッチを、箱の中だけに閉じ込めておくのはちょっともったいない気はしませんか?もしかすると、それらのスケッチはもっと頻繁に外へ出たがっているのかもしれませんよ。

スケッチをそのまま、新しく大きく描き直してみた経験もきっとすでにあるでしょう。そして「やっぱり現場でなくちゃダメだね」とか言って、そのままクルクルと丸めてどこかに押し込んでしまったかもしれませんね。ある意味でそれは当然なのです。
 一枚の絵・スケッチには、それぞれひとつずつ「絵画のイマジネーション」が宿っています。同じイマジネーションを“使いまわし”することは、絵画自体が「拒否」しているんですよ。“『わたしだけのわたし』にして” と絵があなたに要求しているんです。あなたはそれに応えなくてはなりません。どうやったら応えられるか、ちょっとプレッシャーですよね。

ひとつヒントをあげましょう。①モチーフ(題材)は変えないこと ②「魔法の箱」の中をもう一度覗いてみること。きっと何か大事なことが見つかります ③それをモノではなく、たとえば「色」で表現してみること の3つです。スケッチではモノだけしか見ていないことがよくあるものです。モノはまだサナギ。あなた自身の記憶の何かと結びついて、はじめてイマジネーションになるのです。羽が生え、飛べるようになるのです。魔法の箱は「奇跡の箱」でもあるんですよ。

ストレスのない絵

Cafe のスイートピー(水彩)

だいぶ前、教室の帰りに数人とコーヒーを飲みにデパートの近くのカフェに寄ったとき、テーブルの上にスイートピーがグラスに入っていた。正面のガラス窓に暖かみのある照明が映り、その情景がきれいだったので写真を撮っておいた。

そのうちの2枚を合成して描いてみた。YouTube用のビデオを作るために、やや無理やり写実傾向、技法解説の方向性を持った水彩画を描くことが多くなったが、直感的で、言葉で説明しにくいような、こんな絵を描くとなんとなくホッとする。というよりストレス解消になる。正直、YouTubeにアップすることそのものもまだまだ強いストレスではあるが、その方向の絵を描くのもそれに劣らないストレスになっている。

描きたいものを描けばいいはずだが、今のところそれでは視聴者がほぼいなくなってしまう。何度か小出しにテストしてみた結果がそう。いつまでも必ずしも受けないわけではないとも思うけれど。YouTubeを見る、物言わぬ人々の要求はなかなか厳しい。それでも、少なくともあと半年はもう少しそんなストレスに耐え、どんなものでもサラサラっと描けるようになろうと思っている。そのプレッシャーをテコに、私自身の技術力もちょっとはあがりそうな気もするから。

アナログ-デジタル

これは、わたしのいわば「パソコン単語帳」。その中でもビデオ編集ソフトの使い方に関わるところだけ。しかも、全部じゃない。「ほ~っ、勉強家ですね」なんて言ってもらいたくて出しているわけではない。このアナログぶりを、我ながら呆れているところを見せたいだけなんです。

たぶんYouTubeに動画などをアップしているせいで、わたしはパソコンが得意だと思われているケハイがある(“パソコンが得意”という意味がそもそも分からないんだけど)。パソコンを「使いこなしている人」は、こんなドジでアナログな手書きメモなど書くわけないんですよ、はじめから。そんな人にこのメモを見せたらたぶんゾッとするでしょうね、まるでゾンビか1000年ぐらい前のミイラがそこにいるような気がして。

「ヨースルニ、ワタシハパソコンガトクイデハナイ」ってだけのことなんだけど、さらに始末が悪いのはこのメモを読み返すヒマがないってことと、やたらにメモだけが増えてテーブル上にも溢れてくるってこと。はっきり言って、“無駄×無駄”。なのに捨てられない人を、現代の文化人類学では「アナログ人」と定義するらしい(ウソ)。

では、「デジタル人」は?―わたしのパソコンは(わたしを小ばかにしているのか)、わたしがナンニモシテナイノニ、勝手に数値を書き換えたりして意地悪をする。そのくせ、子どもが救援に来ると、何ごともなかったかのように、素直に『自ら』トラブルを修正する。その時、“パソコンから見た”彼のことを「デジタル人」と現代文化人類学では定義する(ウソ)。じゃあ、パソコンからではなく、わたしから彼を見たら?―ただの「若い人」なんだがなあ。