モチーフ(制作の動機)

シンクの水滴

絵画で何を描くか。小説で何を描くか。音楽で何を描くか。記者が何を記事にするか。政治家がどんな社会を描こうとするか・・・対象はバラバラ、雑多なように見えるがカクテル光線のようにいろんな波長の光が重なって、そこが立体的に浮かび上がって見えるところがきっとある。

皿洗いはわたしのルーティンのひとつ。食器がシンクに溜まっているのがタマラナイ。坐りっぱなしの生活時間が長いから、脚の血行回復のために、時どきは立つ(stand up)必要がある。ぼんやり立って、踵上げくらいの運動でもいいらしいが、それと皿洗いを合体させた。英BBCの人気番組に“キッチンでダンス”というのがあるらしい。中身を子細に見たことはないが、要は“皿洗いを楽しいダンスの時間に”ということのようだ。リズムよくお尻を振り振り、食器洗いが健康にもなるという発想はわたしと同じ。皿を洗いながらわたしも開脚したり、腰をひねったり。洗う食器や鍋の量が少ないと、かえって運動不足になりそうな気がしてくるから習慣はおソロしい。

そして毎日見るのがこの「風景」。毎日見ているようでも、二度と同じものを見ることは出来ない。事実も真実もここにはすべて在る。絵画、小説…社会、政治などの、どの分野にも深く重なっている。定点観測のように、これを毎日毎回写真に撮るかスケッチしたら、きっとドエライものが出来ると思いながら、いまだに一枚も(最低1枚は撮った)撮らず、スケッチもしていない。―特別なモチーフを探す必要などどこにもなく、こうやってごろりと目の前に転がって、わたしを下から窺(うかが)っている、のだった。

モチベーションを維持するって大変

人物習作(水彩、F10)

motivation-モチベーションとはやる気(の元)のこと。やる気満々の時はやるのが当たり前という感じで、「維持する」などというイジイジした気分など想像もしない。ところが、小さな失敗が続くとか、環境が変わってなんだかやりにくくなったとか、とにかくもろもろの理由で順調に進まなくなったとき、わたしも含め、多くの人は一時的にせよやる気が低下する。

モチベーションが上がらないといっても、たいていはいろんな理由で望む結果が得られなくなる→達成感、幸福感が得られない→続けることが苦痛、ということだろう。望む結果が得られるなら、たぶん悩んだりはしない。

人間というのはよっぽど欲の深い動物で、同じ(ような)結果が続くと、それ自体が不満の種になるから厄介だ。たとえば陸上競技などで毎回2位だとしよう。異なる大会でも毎回2位というのはかなりの好成績。しかも人間だから体調のいい時ばかりではない。それでも毎回2位というのはわたしなどは凄いと思うのだが、1位が望みならばやはり不満だろうし、「いつも2位」は慣れてしまって達成感には程遠いのかもしれない。問題は周囲。「残念。あと一歩」とか「次は1位だね」などとの激励が逆効果で、本人を達成感から引きずり下ろしてしまう。そしてその残念感がいつしか本人のこころに棲みついてしまう。そんな風に想像する。

モチベーションを他人との比較でしか得られない人、特に各種競技の選手などはそういう意味で過酷な環境にあると言えそうだ。こんなふうに言うと、自分はすでに悟りの境地にいるかのように思われそうだが、わたしもそこから脱することは全然できない。ただ、最近は人との比較(はするが)より、自分の人生の残り時間との中でモチベーションを考えるようになってきた。山に喩えると、頂上という具体的な結果よりも、どの高さから風景を眺めたいか、という一種の“自己満足派”に移りつつあるようだ。自己満足とはいえ、そこへ行くにも小なりとも幾多のハードルがあり、そのいちいちを越えるごとにちょっとした喜びを味わう。やっても無駄かなという、とんでもない「虚無」が持ち上がってくると、やる気ガタ落ちになるが、とりあえずそうやって“プチ”満足でやる気を維持しているようである。

Step by short step

今ごろ年賀状だって

step by step (一歩ずつ)という慣用句を自分の感覚に合わせて作りなおしてみた。「一歩」というのは(わたしにとって)意外に大きく、半足(足裏の長さの半分)ずつ、見た目で言えば“すり足”のように進むことさえかなわないことがある、という意味を込めたつもり。(ちなみに、英文的には不適切な句だと思う)

毎回動画の話で恐縮だが、あるYouTuber が言うには「YouTubeを始める人のほとんどは挫折する。」最初の数カ月は一歩も進まないからだという。頑張って動画を作っても、反応がゼロかそれに近い日が続き、少し視聴数が増えても、嫌なコメントが来たりすると落ち込んで熱意を失う、のだそうだ。

幸い?わたしの場合、わりと最近まで視聴数とか全然気にしていなかった(そんな余裕もなかった)。とりあえず作る練習。作ったものをアップする。この二つを繋ぐことができるだけで100% 満足できた。そんなごく小さな技術的なことを一つ覚えるたびに、小さな喜びを得た。小さな成功体験の積み重ねというやつ?
 「ほとんどの人は視聴数〇万回とか、チャンネル登録者△万人というところだけ見て、自分にも簡単にできそうだと思う」とも言っていたが、「そんなの無理」と真面目にとらえなかったのも、まだ続けられている理由の一つかもしれない。いろいろ数値や例を挙げて説明していたが、一言で言えば、結果を早く得ようとし過ぎるからということのようだった。
 動画であれ、なんであれ、最初は(対外的な)結果など望めないのが普通。けれど、(自分の中では)難しかったところがなんとなくできるようになった、それらしいかたちをとれる、とるのが苦にならなくなってきた、など小さなステップアップは手応えとして誰にでもあるものだ。その小さな short step の積み重ねが step を作る。実際、皆そうやってきた。

苦しいのは、それがどれだけあれば 「一歩」になるのか、それにどれだけの時間がかかるのかが分らないということではないだろうか。今のアメリカ流の教育法の一つは 、step をできるだけ小さく区切って、具体的な目標を明示することなのだそうだ。そしてこの教育法が多くのノーベル賞受賞者を生んできた、と何かで読んだ。
 これが出来ればグッジョブ、それもできればコングラチュレーション(おめでとう)、グレート!(すごい!)。(日本流に)遠いゴールだけを見て、「これくらいじゃまだまだ」と思うから苦しい、のかもしれない。自分で自分を教育しよう。人が褒めてくれなくたって自分で勝手に褒めよう。ご褒美も用意しよう。Step を さらに小さく区切って、まずは自己満足から Start from a step.