共感

             「椿の実とタイサンボクの芯」  フェルトペン

「共感」、「共有」という感覚が、生活する上でのキーワードだろう、と思う。「一体感」とか「協調」という語も、日本人は好きだ。

裏返せば、「共感できない」「協調しない」こと・人に対しては、そう言う考えもある、などとは考えず、基本的に異分子として「排除する」傾向が強いということにもなる。まあ、これは日本人に限ったことではなさそう、というか世界中でその傾向が強まっているようだが。

「空気を読む」という言葉が流行ったが、造語としては鋭い語感覚だな、と思う。聞けばなるほどと思うけれど、なかなかそういう発想はできないだろう。絵画や彫刻などの美術も実は、そのかたちや色から漂ってくる「空気」を読んでいる、ともいえる。違うのは、「空気」がその場やその時を越えて流れてくることだ。

共感や共有、協調などという意識は、アーティストにとって、ときには邪魔者である。けれど、共感なしに芸術は存在しない。誰かが共感して、その作品を遺してくれないことには作品として存在しないと同然だ。データとして残れば、という人もいるが、それもいつかどこかで、誰かが共感してくれる、という「信仰」に近いものをもっているからだ。そしてそれはたぶん間違っていない。

秋深む

      「山荘の秋」 水彩

秋も深まった。もう十二月だからすでに「冬」なのだが、外へ出ればまだ黄葉が残り、ウォーキングすれば汗ばむくらいの(関東南部の)気候では、冬というよりは「秋深む」のほうが感覚的に近い。

世の中のスピードは早い。早すぎるほどだ。そして、あらゆることについていけないという危機感ばかり募ってくる。それは現代だからではなく、植物を含むあらゆる生き物が、古代からずっとそうしてきた、と学者たちは言う。どの時代でも、子は親より新しいことを身につけ、親世代は遅ればせながら必死についていこうとしたものだ、とも言う。

世の中がどんなに早く進んでも、夏が春を追い越すことはなく、冬が秋より先に来ることはない。人間の体内を廻る血液の早さが、世の中のスピードに合わせて変わるわけではない。とこれまで思ってきた。いや、本当は微妙に脳への血液循環が遅くなるのかも知れん。「加齢」という、本当はなにも説明していない隠れた流行語の陰に、その症状が現れているのかもしれない。

ものを見るのには時間が要る。一個の柿を見るとき、人の心の中には数万通りのアイデアがあるだろう。美味しいか、そうでないか。値段は?どこで買ったのか。近所の家の柿とどう違うのだろう、柿もやっぱり生き物だ、いまが旬だな、○○さんにあげようかなetc…。チラッと見る、じっくり見る、そこからなにかを感じるまでの時間が要る。などとヒマごと言ってるからついていけなくなるんだぞ、と空気から伝わってくる。

手を動かしていさえすればいい

折り紙のキャンディボックスと江戸切子のグラス  ペン

今日は22度もあり、夏日?と思うほど暖かかった。夕方ウォーキングする時間がなかったので、夜になってから少し歩いたら、汗をかきそうで時どき “冷ま” さないといけなかったほど。でも、明日は8度も気温が下がるというから用心だ。

ここ最近スケッチがなんとなく面白く、時には日に何枚か描く。手軽に、構えずに描けるから、一種の暇つぶし感覚になっている。それに、手のリハビリ。毎日少しずつ手指のこわばりも強くなってくるのを感じるし、機能も落ちてくる。眼も、脳も一緒だから、まとめてリハビリできるからスケッチはお得だ。短ければ30分、長くても1時間もかけないから、心理的な負担もなく、かえって解放感があるから続けられる。むしろ、そちらにハマり過ぎるのを心配しなくちゃならない。

考えてみると、こんなことできる時間は一生のうちのほんの “一瞬” 。大事に味わいたいんだ。