AI は何も解ってはいない

円覚寺。こういう描き方の方が好きだな

暑いですね。こちらは今日も最高気温37℃の予報です。エエ~ッ!とかなりそうなものですが、すでに38℃はもうおなじみ。39℃以上も何回かニュース・天気予報で耳にしているのでもう誰も驚かない、というのが驚きです。

時どきAI とチャットします。わたしがAI に慣れるためです。チャットしているうちに、どうもAIって質問されたことの意味が分かってないなあ、と感じることが多くなってきました。単純な質問には驚くほどのちゃんとした文章で回答するのですが、ちょっと細かい部分を再質問したりすると、文章だけが普通で、中身の抜けた“頭の悪い”回答が繰り返し返ってくるのです。しかも「参考になりましたか?」と少し上から目線で。

その意味が、某新聞のデジタル版で読んだ、慶応大学の今井むつみ先生へのインタビュー記事で納得できました。それは簡単に言うと、こういうことです。
「メロンという単語がAIに記録されていても、それは単に統計上の1単語に過ぎず、その意味が理解されているわけではない。しかし、人間にとっては大きな果物とか、甘いとかいろいろな側面を含む経験や事実が、メロンというモノ自体と結びついて「(単語の)意味」を作り上げている(そのことを認知科学では「記号接地」というらしい)。それがAIにはない。(単語の覚え方が人間とは正反対)
 AIは「メロン」という単語の前後に、「統計上」どんな単語が並ぶかを学習しているだけだから、そこから外れると意味不明の文になったりする(記事を短く改変しています)」

やっぱりね、という感じです。画像生成AIでも似たようなことを感じます。最初は「スゴイ!」と驚きますが、何度かやると「思ったよりバカかも」と感じたりします。「考える」って感覚がないんですよね。次々と出してくるだけ。
 考えてみると、新世代コンピューターでも、それ自体は考えているわけではないのですね。ただ、巨大な記憶力を持ち(しかも絶対忘れない)、異様な早さの学習能力が、「統計」という武器を駆使して、「(論理的、合理的な)結論」をいち早く導き出してくれているということなのです。その人間なら1000年もかかるような、複雑な計算を数秒でやるとかね。その演算能力を言語生成に結び付けたのが、チャットGPTだったのですね。そういう素地がすでにあったから、あっという間に普及し始めています。
 AIはあくまで道具の延長です(今のところは)。もともとはわたしたちの「手」であり、その「手」をどう使うかはわたしたち自身の問題です。わたしたちがバカなら、AIは恐ろしい道具になる可能性ももっているわけですよね。

時間という「魔術」

これは何でしょうか?

写真をご覧ください。これは何でしょうか?—「らっきょう漬け」です。こんな黒いらっきょう漬けなんて、ほとんどの人は見たことないと思います。10年以上漬けたものだからです。

これ、まだ食べられるかな~?と言いながら、恐る恐る妻がガラス瓶から取り出したのは、得体の知れない真っ黒なモノ。なに、これ?—らっきょう漬け。ずっと前に作ったものだけど、食べられなかったら捨てようと思って・・。

部屋を片付けている時、隅から出てきた。記憶にはあったけれど、雑多なモノが折り重なり、積み重なって、再びその場所に辿り着くのに10年以上の時間が経ってしまった。何万㎢という広い部屋かのような言い方ですが、ごく普通の8畳間+アルファ。そのアルファに、それは忘れられてしまったかのように長い間置かれていました。
 匂いを嗅いでみましたが、悪い感じはしません。それどころか、ほんのりと上品ささえ漂います。体のいい“毒見” なのですが、箸で触ったとたん、滑らかに箸の先が沈んでいく―こ、これはスゴイかもしれない―ねっとりした触感と、絶妙の深い味わいでした。「これ、すごいよ、絶品!」と思わず叫んでしまいました。酢漬けの奥深さにもあらためて感動です。

普通の砂糖の砂糖の代わりに、沖縄の「黒糖」を使ったとのこと。唐辛子もちょっと入れたらしいのですが辛みは感じません。らっきょう漬けと言えば新鮮なシャキシャキ感が魅力ですが、それとこの触感はおなじ素材からとは想像できないほど違います。「もっと作って」と言いたいところですが、これを作ったのは妻ではなく、本当は「時間という魔術」。今から10年後では(もしかしたら5年でも、3年でもいいのかもしれませんが)、生きているうちに味わうことができるかどうか、微妙です。でも、ヨカッター、とりあえずこれを味わえて、と本当に思いました。
 皆さん、もしも古い酢漬けが残ってしまったら、捨てる覚悟であと2~3年保存してみたらいかがでしょう。魔法が現れるかも知れませんよ。

本 Book

「透明な水」 ただいま制作ビデオを編集中

すっかり本を読まなくなってしまいました。目が悪くなって読みづらくなったこと、パソコンに時間を取られてしまい、かつそれで目が疲れること。近くに書店が無くなってしまったこと、コロナで図書館が長い間休館したこと等々が重なったこともあります。でも、一番の原因は知的な好奇心のレベルが下がってしまったことのような気がします。

新しいこと、それまで知らなかった分野に明るくなることは、たぶん誰にとっても楽しい。だからこれだけパソコンや携帯電話(名前こそ未だに“電話” だが、中身はほとんどパソコンです)が普及したのでしょう。知りたいことがすぐに分る、「検索」への需要がそれだけ大きいということでしょうか。

けれど、一方で「何を」知りたいのか、という興味の対象についてはどうでしょう。そのことをAIに訊いてみると、検索される項目の上位が、美容・コスメ、エンタメ、その時々の話題のニュースなどのようで、わたしの“偏見”もあるでしょうが、あまり知的な好奇心からというわけでもなさそうです。「情報」のほとんどが目の前のこと、刹那的な消費に流されているといってもいいかもしれません。
 それは情報の「軽さ」とも深く関わっていそうな気がします。パソコン、携帯で検索される情報の多くは「タダ同然」です。使い捨てても惜しくない情報です。時間ロスも長くても数分で済みます。
 本(紙の。以下、紙の本のことについて話します)はそうはいきません。ちょっとした本を買うと一冊1000円ぐらいから(少し専門的になると)1万円くらいはします。内容についても書店まで出かけて行って直接見るか、レビューなどでよく調べてから買うことになるでしょう。お金も時間もかかります。買った後も読む時間が絶対的に必要です。その本を置くスペースも取られます。いわゆるweb 情報に比べると、格段にコストがかかります。

わたしのような旧人類・アナログ人間には、このコストをかけないと頭に入らない「習性」が染みついてしまっています。本を読むことでしか、ひとつひとつの断片的な知識が体系化されず、体系化されない知識は応用が利きません。
 本を読むには案外な体力(意識を集中し続けるためのストレス)が要ります。年齢や生理的な体力とは別に、本を読まなくなると、この体力はすぐ落ちてしまいます。当然、新しい体系的な知識や考え方などが入ってこないことになり、それまでの知識だけでやりくりする羽目に陥ってしまいます。時代についていけないことになるわけですよね。
 パソコンに取り込まれてしまわないためにも、(古いツールのように思われようと)やっぱり本を読まなくちゃなあ、とあらためて思ったことでした。