アナログ-デジタル

これは、わたしのいわば「パソコン単語帳」。その中でもビデオ編集ソフトの使い方に関わるところだけ。しかも、全部じゃない。「ほ~っ、勉強家ですね」なんて言ってもらいたくて出しているわけではない。このアナログぶりを、我ながら呆れているところを見せたいだけなんです。

たぶんYouTubeに動画などをアップしているせいで、わたしはパソコンが得意だと思われているケハイがある(“パソコンが得意”という意味がそもそも分からないんだけど)。パソコンを「使いこなしている人」は、こんなドジでアナログな手書きメモなど書くわけないんですよ、はじめから。そんな人にこのメモを見せたらたぶんゾッとするでしょうね、まるでゾンビか1000年ぐらい前のミイラがそこにいるような気がして。

「ヨースルニ、ワタシハパソコンガトクイデハナイ」ってだけのことなんだけど、さらに始末が悪いのはこのメモを読み返すヒマがないってことと、やたらにメモだけが増えてテーブル上にも溢れてくるってこと。はっきり言って、“無駄×無駄”。なのに捨てられない人を、現代の文化人類学では「アナログ人」と定義するらしい(ウソ)。

では、「デジタル人」は?―わたしのパソコンは(わたしを小ばかにしているのか)、わたしがナンニモシテナイノニ、勝手に数値を書き換えたりして意地悪をする。そのくせ、子どもが救援に来ると、何ごともなかったかのように、素直に『自ら』トラブルを修正する。その時、“パソコンから見た”彼のことを「デジタル人」と現代文化人類学では定義する(ウソ)。じゃあ、パソコンからではなく、わたしから彼を見たら?―ただの「若い人」なんだがなあ。

ランプに灯をともす人

英国ロンドンで、街灯をガス灯から電灯に替える案に対して、残すべきだというキャンペーンについての記事を、BBCワールドニュースで見た。ロンドンのウェストエンドと呼ばれる地区(ウエストミンスターシティ?)にある275個の古いガス灯を電気に、すでに電灯に置き換わった30個をLEDに替えるということにまつわるストーリー。

メリーポピンズ、マイフェアレディやシャーロックホームズの世界に我々を連れ戻してくれる、それがロンドンという「生地(fabric)」の一部だという、“いかにも”な意見も紹介されていて、当局もその雰囲気を壊さないよう、「ガス灯のような効果」をアピールしてしているようだ。すでにLEDに交換された“ガス灯”の写真も載っているが、もともとを知らないからわたしには判定の仕様がない。
 ロンドンには15000を越える街灯があるらしいが、そのガス灯に毎夕灯を点けていく仕事をしていた老人がいよいよリタイアする、という別の記事もだいぶ前に見たのを思い出した。それも、いかにも“英国らしさ”を感じさせる、いい記事だった。

BBCだから、なにより写真、映像がきれいだ(ちなみにナショジオも同じ理由で、もう数十年購読している)。そこに映る人々の表情も素晴らしい。英文記事が読めなくても、インタビューが全然聞き取れなくても、それを見ているだけで癒される。
 イギリスは古い国だが、世界の流行の発端を創りだす新しいアイデアの国でもある。たとえばポップアートやロックンロールなど、歴史の深さとそこに生きている生活と思想との重なり方が、同じように古い歴史を持つ日本とはどこか似て非なるものを感じる。外からうわべのきれいごとだけ見ている面もあるだろうが、同じように保存キャンペーンを取り上げるにしても、すぐに「反対運動」としてだけ報道したがる日本のマスコミに、一灯一灯ランプを灯してあるく老人の、なんとも言えない「人間の顔」は映せないだろうな、と思ってしまう(写真を載せたいが、権利の関係で無理)。

陰影

編集中の動画「つるバラを描く」から

「影を落とす」という言葉がある。文字で書くとき、「陰」は遣わない。「陰」は日向(ひなた)に対して、日の当たらない側を指す語で、そもそもかたちを持っていない。間接的にしか視覚化できないのだから“落ちようがない”。

一方、「影」は光に照らされた物体が、( 陰の側に)そのかたちを視覚的に“投影された”もの、文字通り「投げだされた=落ちた」ものである。時期、時刻によってかたちも変わる。シャドウとシェイドの相違だ。

「(戦争が)人生に影を落とす」というような言い方は、両方の“感じ”を持った比喩だが、現実問題として今度のウクライナ戦争では、ウクライナの人々はもちろん、兵として戦争に駆り出されたロシアの一般人、その家族はどんな気持だろうとも思う。YouTubeなどをみると、ウクライナへの共感は解るとしても、ロシア兵をまるで“虫けら以下”ででもあるかのように扱っているものが少なくない。かつての戦争で農村から招集された多くの日本兵がそうであったように、彼ら一人一人が皆ウクライナ人を殺そうと思って銃を取ったわけではないだろう。ブチャ等での虐殺などは見過ごせないが、そうした見方もまた、戦争が私たちの心にも影を落としているからなのだろう。

「健康」をはじめ、あらゆるものが私たちの人生に影を落とす。それとは気づかないうちに、あるいは気づきながらも日々の行動をそれらに掣肘(せいちゅう)されていたりする。どうにもならないこともあれば、気づくことで変えられることもあるだろう。立ち止まり、自分の影を見ることも時には必要かもしれない。