「わたし」と「わたしたち」

「わたしたち」というとき、「わたし」はすでに誰か他人の陰に隠れている印象がある。複数の中に紛れて、自分を幾分か隠している感じがする。

「わたしは」と一人称で言うとき、それは自分の選択や行動を、他人の誰かのせいにしない、ということにもつながる。それは厳しい世界の始まりになる。一度巣立ったら、鳥はなにがあってももう誰のせいにもしない(できない)。鳥だけでなく魚だって、動物だって、昆虫だって同じこと。イワシの群れ、ミツバチの群だって、ひとつの行動をするとき、その一匹一匹が隣のイワシやミツバチのせいにしているわけではなく、本能的な危機管理能力のかたちがそうなっているだけのことだ。違うのは人間だけ。

逆に言えば、「わたし」を捨て、「わたしたち」を大きくすることで人間は社会を作り、文化を創り出せたのだ、という言い方もできるかもしれない。でも、最近は「わたしたち」では文化は創り出せないような気がしてきた。「わたし」しか、できないのではないか、と考えるようになった。ベートーベンは「わたしたち」ではない。「ピカソ」も「わたしたち」ではない。「わたし」のスペースをもっと拡大しなければ、「わたし」は他人の誰かの陰に隠れたまま、イワシやミツバチのように終わる。それもまっとうな生き方の一つではあるけれど。

包丁一本、筆一本

顔の習作 水彩・ウォーターフォード紙

7日のブログをすっ飛ばしてしまった。深夜12時少し前、ブログを書き終わって、一杯のワインを注いだのがいけなかった。日付が変わるまでにまだ15分くらい余裕がある。どの写真をブログにつけようか、などと考えながら、ごくりと一口喉に流し込む。その前に短いニュースでも見ようとYouTubeを開いた。ウクライナ、ガザ、パーティ券のキックバックなんて見ているうちに、誰が注いだのか、2杯目が。
 すっかりアップロードしたつもりになっていた。翌日、あえてアップするほどの内容でもないか、ということでスルーしてしまった。

風呂吹き大根の真ん中に芯が残って、箸で4つに千切れない。熟し過ぎてふにゃふにゃになった柿が、皿の上にだらしなく伸びていて、手で持ちあげることが出来ない。包丁の出番である。とりあえずどちらも十字に切りさえすればなんとかなる。アーメン。包丁って便利な発明品だとあらためて考えた。
 「それを言うなら鉄の発明、だろ」と正当過ぎるツッコミを入れないでもらいたい。ちなみに、我が家でこういう状態の柿を食べるのはわたしだけである。特に好んでいるわけではないが、なぜかときどき目の前に寝そべっているのである。今年は特にその頻度が高い。が、迷惑なわけでもない。硬い柿と、ぐでぐでの柿とはまったく別種の果物だと割り切れるかどうか、だけである。一度など、すでにアルコール発酵が始まっているやつも食べたことがある。もはや珍味である。

そう、包丁の話だった。モノを切って食べるのは人間だけだ。他はすべて丸呑みか、歯で切り裂くか噛みきるだけ(吸血するやつもあるか・・)。呑み込めるのかと思うほどの大きな魚を、喉の半分くらいのところでつっかえたまま、ジレンマに悩む鳥。こんな時、彼らに包丁があったら、何の苦もなく、刺身でも、ステーキにでもして食べられるだろうに、と思わざるを得ない。水牛の角をワニはどうやって口の中に入れるのだろうか。心配してやる必要はないが、心配である。包丁さえあれば、もし噛みきれないほど硬いものでも、そのうちなんとかなる。顎を怪我しても、肉を噛みきる歯が折れても心配ない。有難い発明だと、つくづく感謝である。
 あっ、筆のことね。筆で文字は描けない(わたしの場合)が、絵は描けるから便利だなーっと。無くても絵は描けるけど、一応便利。

カレンダーは12月

「手の習作」ビデオ編集中の1コマ

今日は2023年12月5日火曜日。一昨日、日時指定の配達を頼む用事があったので、用紙を見ていたら、なんとなく頭が混乱した。あれっ?え~ェ?という不確かな感触のまま、郵便局へ行ってきた。混乱が治まらないので、いろいろ確かめているうちに、カレンダーがまだ11月のままなのに気がついた。

机のまわりにカレンダーが3つもぶら下がっている。一つはちゃんと12月になっている。ひとつは11月、残りの一つはまだ10月のままだった。見たのは11月のやつ。たまたま腰を屈めて記入したところの目の前にあったから、つい見てしまったのだった。良かった~。貧弱な脳がさらに溶けてしまったかと心配だった。でも、日時指定の方はもう頼んでしまった後だし、悪夢を見たくないので、そのことはもう考えないことにした。

Time flies. 時は飛んでいく。まさにその通り。誰もそれを止めることはできない。過ぎ去った10月、11月も、わたしにとってはほとんど同時の今(12月)であったのかもしれない。「手の習作」ビデオを編集中。制作中も、編集中も頭のどこかで記憶を辿っていた。40年くらい前にも、確かこうやって手を描く練習をしていたっけなあ・・・。筆を使う手が重なって見えるのは、視力のせいばかりでもなさそうだ。