愛の深さ 2

「芍薬ー2024・5月」 水彩 F6

「愛の深さ」とは、結局のところ「関心の深さ」と非常に近いものではないか、と思う。たとえば、先日、フジコ・ヘミングさんのことを書いたが、彼女のピアノへの愛と、ピアノに対する関心、興味の深さと、それは本人にはあまり区別できないのではないだろうか。

子どもに対する親の愛情だって、子どもが何を感じ、考え、今どうなのか、それらは関心、興味の深さと言い換え可能なのではないか。強いて分けるならば、それに自分がどう関わって生きようとするのかという、能動的な立場の違いがあるかもしれないが、彼女の場合で言えば、違いなどほとんどないのではないかと思う。

もしも、そのアイデアが正しいとするならば、たとえば、絵画への愛の深さは絵画への興味・関心の深さだと言える。ただし、そのことは、絵を描かない人は描く人より絵画への愛が薄い(浅い)ということを、まったく意味しない。描くことが好き、観ることが好き、それぞれ別のものだと思うから。描かなくたって、好きな画家、作品、美術の歴史、美術の周辺技術など、興味・関心の対象となるものは、どれをとってもそれぞれ底なしに深いものがあるだろうし。
 要するに、通り一遍で、済ませられないものには、どれも愛を感じていると言ったら言い過ぎだろうか。スイーツ愛でもラーメン愛でも、必ずそこに自分の何か、たとえば時間、たとえば体力、たとえばお金というように、負担をかけてでも「もっと深く知りたい」「深く関わりたい」という衝動のようなものがある。それを愛と呼んでいいのではないか、ということ。

わたしたちは機械ではない。機械のような正確さも強さも持ち合わせない。コンピューターのような記憶力も計算の早さも無理。間違い、無駄なことを繰り返す。けれど止められない、知りたいこと、もっと関わりたいことがある。それは愛と同じものではないか?
 自分の胸に手を当てて考えてみる。なにかを愛しているだろうか。

能力

「デンドロビウム」 水彩

最近いろんな能力なくなったなー、とか口癖のように話し、書いたりするようになった。実際、そう感じるようになったからだが、実は人間の能力なんて、そう簡単には比較したりできないものらしい。

人間と他の動物との能力差ももちろん単純比較などできない。「霊長類」などと自らを勝手に最上位に評価して威張っているが、比べる項目自体、人間目線でしかない。人間から見て比較しやすいところしか、人間には見えていない。その人間の中でも、特定の能力、たとえば学習能力(この言い方もあいまいだが)、運動能力、etc,etc.ひところ流行った、○○力なんてのもその類だ。だから、本当はわたしもそう落ち込む必要なんかないはずなのだが。

海辺に棲む、ゴカイという、せいぜい十数センチほどの生き物がいる。磯にいるムカデと思えばイメージは近い。捕まえて釣り餌にするのだが、このゴカイに、血が出るほど噛まれたことがある。
 驚いて口の部分を見ると、小さくても立派な牙がある。だから、“捕まえたら直ちにハサミで頭を切り落とせ” という、かすかに覚えていた教えの意味を、その時初めて了解した。しかもコイツをじっと掴んでいることもできない。どんなに強く握っても、まるで鋼鉄で出来たスブリングかコイルのような感じで、グイグイ指を押しのけ、指のあいだから抜け出してくる。岩にびっしり生えたイガイ(ムール貝によく似た小型の貝)の隙間?に簡単に潜り込んで行けるくらいだから、人間が指を閉じる力など問題にしないのだ。

こんなすごい能力を、人間的に評価しても何の意味もない。人間は走ったり、泳いだりできるから、ついチーターと比べたり、イルカと比べたりするが、たとえばゴカイのような恐るべき能力などに、人間の想像力の方が追いつかない。イカだのタコだのが、体表面の色素を広げたり縮めたりして、身体の色を変えるのは多くの人が知っているが、それを人間の尺度で評価する意味は同じくゼロ。ただただ、スゲーというしかない。地球はそんな生き物で溢れているのだ。
 だから、わたしたち老人というイキモノもそう卑下しなくてもいいのかもしれない。もしかしたら、ボケだって、視点を変えれば、立派に獲得された能力なのかもしれないではないか。社会的弱者などと親切を装った、体のいい強制退去を目論む、企業、政策目線からの一面的な評価に甘んじる必要など、ないのかも知れないね。

いよいよ絵を描かなくっちゃ

「デンドロビウム」 水彩

いよいよ絵を描かなくっちゃならない。義務ではない。仕事でもない。自分の人生としての、まとめとして絵を描かなくっちゃならないんです。

今までもたくさん絵を描いてきたし、今も描いてはいるのですが、どうも「自分の絵を描いた」って感じがしないんです。このままじゃ、自分の絵を描かないまま、あの世行きだなー、なんて考えるトシになってきたんです。自分をフジミ(富士見×、不死身〇)だと信じていたこのワタシが、ですよ。

じゃあ、これまでの絵は何だったの?ってことになりますよね。“かなり手前味噌” になりますが、これまでだって、「他人の絵」を描いてきたわけじゃあないはずだし、いま自作を見ても、自分の世界観がそれなりに絵の中に込められているとは思います(これを「独りよがり」というのでしょうが)。でも、何か足りないんです。
 良い絵を描きたい、というのとは違います。「良い絵」が描けたと自分が思っている時が、一番ダメな絵を描いている時だ、ってのは、これまでの人生で深~く味わってきたから、そんな次元はもう卒業しました。願うのは、「自分にもこんな世界があったんだ」or 「もうこれ以上は無理だぜ」ってヤツかな。

それを描いた直後に死ぬってのはまるで時代劇ですが、アイツは昔の人だからと、そこは大目に見てもらって、「この人があと数年生きていたら、もっと面白い絵を描いただろうなー」と、想像したくなるような絵を描いて死にたいんです。べつに、そういう評価が欲しいわけではありません。そう思えるような絵を描きたいという気持、あの世へ持っていきたい一枚ですね。