遠近法の本質

ピンクの花と蘭のスケッチ

遠近法と言えば「透視図法」をすぐ思い浮かべ、「あぁ、苦手なんだよなー」と思った方、「透視図法は一応マスターしている」と思った方、がっかりする必要もありませんし、それで十分だとも思えません。

遠近法はどうしてできたんでしょう?―遠近感、距離感を表現したかったからですよね。でも、なぜそんなものを表現したいんでしょうね?―それは、好きなものと嫌いなものを区別、表現するためだ、とわたしは思うんです。

「ママが大好き」な子どもは、お母さんを(お父さんより)大きく描きます。それが正直な距離感だから。大好きなママに、子どもはいつもくっついています。間近で見るママは時には自分を覆い隠すほど大きな「物体」です。お父さんも優しいけど、ママと同じというわけにはいきません。なので少し離れ、少し小さく見えています。剃り残しの髭が見えるくらいの距離感でね。
 子どもの絵を見ると、距離感の違いは明解に表現されています。これが「遠近法」の本質だ、とわたしはだんだん考えるようになってきました。

わたしがあなたを好きか、嫌いか。この味が好きか嫌いか。この服が着たいか着たくないか。それは視点の裏返しでもあります。子どもから見て、大人が自分を好きか嫌いかは、子どもの生存に関わる大問題。ヒトは生まれた時からそうやって、自分以外のヒトやモノとの距離を測り、自分だけのメジャーを作ってきたんですよね。それが遠近法の原点。
 ヒトやモノとの距離感はそんなふうに一人一人固有のものとして積み重ねられていきます。でもそれだけじゃあ話が具体的に伝わらないから共通のツールが必要だろうね、って生み出されたのが、たとえばメートル法などの距離の単位だったり、ちょっと跳んで「透視図法」、なのではないか、とわたしは想像します。
 あなたの心の中に、あなた自身の「遠近法」があるのをわたしは知っています。それを、見せてくださいね。

アイドリング

教室でのスケッチ

久しぶりに生花のスケッチをした。ほとんど何も考えず、ただ無心に(実際は少しは考えるのだが)目の前の色や形を写し取る作業は、疲れた頭を休めるにはいい時間。

遠くをあてもなく見るのが目の健康には一番いいと、何度か眼科医から聞いたことがある。眼をつぶるのではなく、遠くを見る。完全休止状態にするのではなく、いわばアイドリング状態で休む。

大安(吉日)

今日は大安。何かいいことがあるかな~、とか思っていたが、今のところ何もない(まあ、それが普通だけどね)。むしろ朝からなんとなく頭は重いし(脳みその重さならいいのだけど)、パソコンは調子が悪く、何度モニターに向かって罵声を浴びせたことか(恥ずかしくて言えませんが)。もしかして一日違いの「仏滅」と間違ったかと思うほど。 

大安だの、仏滅だのは、手帳を開くとちょこっと日にちのところに記されている。そんなものを数年前までは、知ってはいても見ることがなかった。最近はなるべく「仏滅」の日は出かけないようにしている。

特別に嫌なこと、悪いことがあるとなぜそんなことになったんだろうと、とりあえず反省する(んですよ、わたしは)。そうやって記録しているうちに、なんだか仏滅の日に多いよなー、というデータ(感)が浮かび上がってきた。もちろん、そんなの偶然に決まっているのは承知だが、特に用事がないならあえてそんな日に出かける必要もないか、という気になってきたわけ。必要で出かけなくてはならない時は「今日は仏滅だから慎重にね」と言い聞かせるようにしているんですよ。笑っちゃいますよね。

今日は大安。今のところなにも良いことはないが、悪いことも起きていない(頭痛も治まってきたし)?それが大安かもしれんね。仕事もせず、ゴロゴロ寝転んで、時どき本を読むだけ。それがまさに大安なのかも知れん。それにしても、どうしてこんなにパソコンの調子が悪いのか、マイクロソフトの仕業ではないかと疑っているのだが。