「カフェテリアにて」

「カフェテリアにて」 水彩スケッチ(YouTube用に制作)

YouTube用に水彩スケッチを制作する。それはそのまま作品になることもあれば、苦い失敗の修練になることもある。ただ、どれも「自分でなければできない」というオリジナリティはない。その意味ではどれも単なる制作、ということになるのかもしれない。

同じように描いても出来不出来というのがある。ケーキ屋さんとかラーメン屋さんが、一個ごと、お客さんごとに出来不出来、味の違いがあっては商売が成り立たない。100個作っても、500個作っても、見た目も味も見分けがつかないようでなければならない。それが職人というもの。

絵画などは逆に100枚描いてもどれも同じモチーフ、構図、テイストも同じでは問題だろう(もしそういうことができたら、それはそれで凄いとは思うが)。1点1点違うことが前提ではあるが、それが「出来不出来」の違いであるなら問題だ。職人的な修練、100個同じレベルのものを作る能力は、必要かも知れない。いや、むしろ逆なんだろうか。

目がショボショボです

とりあえずアップロードしました。ご高覧あれ

野生の動物だって目がショボショボになることはあるはず。だいぶむかし犬を飼っていた頃、何度か犬が眼病にかかり、目薬など差した経験からもそう言える。猫もそうだった。カメレオンなどある種のトカゲは自分の下で眼を舐めてきれいにする。複眼を持つトンボも、よく見ると前足でしょっちゅう目を撫でている。もっともあれは「眼精疲労」などではなく、たんにゴミ?を掃っているのだろうけど。

動物も病気にかかるけれど、たぶん「病気」という概念はないだろうから、たんに「苦しい」「痛い」という「感覚」の中だけにいる。もちろん医者など知るわけはないから、調子が戻るまで、ひたすらじっと耐えている。

いちど、子犬が車に轢かれそうになったことがある。雪道で、チェーンを巻いた車の中に跳び入ってしまった。下敷きになるのは免れたが、回転するチェーンの端っこが眼に当たったらしく、キャンキャン鳴きながら、大きな下駄箱の奥の方に潜り込んだきり、出てこなくなった。食餌も取らず、じっと奥に潜んだまま数日。やっと痛みが薄らいだのか、空腹が勝ったのか、出てきた時は眼窩の一部が切れて晴れ上がり、眼球は白く濁ってしまっていた。―これは失明する―と思ったが、当時は動物病院などという洒落たものはなく(そもそも人間の医者さえいない「無医村」だった)、ただ見守るしかなかった。

驚いたことに、成長期だったせいか、数カ月で眼の白濁はすっかり消え、視力も回復した(ようだった)。自然の治癒力の凄さを見た思いで、今もよく覚えている。
 遠くをぼんやり見る―それが一番目を休めると眼科医に聞いたことがある。いま自分がやっていることは、その真逆。ショボショボになるわけさ。

手順

「モーニングコーヒー」 水彩

絵を描く場合、油彩よりは水彩の方が、手順に関してシビアである。解りやすく言うと、油彩はどんな描き方をしてもだいたい似たようなゴールに辿り着けるが、水彩画では悪い手順を取ると悲惨な結果になる、あるいは辿り着けないということ。

それは個人的なテクニックなどとはほぼ無関係で、水彩画の原理そのものに理由がある。油絵は明るい方へも暗い方へも自在に進めることができるが、水彩画は暗い方へしか進めない。それをどういう風に進めていくかの順番、つまり手順が狂ってしまうと、もとの明るい位置に戻せないということ。そのことは誰でも一度や二度は失敗して、皆さん経験済みだろう。

だから、水彩画の習作では、構図、構成の検討以外に、実際に描いてみて手順を確認することが少なくない。
 絵のことだけでなく、社会には「ボタンの掛け違い」というのがある。最初のボタン穴の位置を間違えると、途中で気がついてもなかなか修整できないまま、ズルズルと関係がこじれてしまうことを言うが、水彩画もそれとそっくりである。途中経過を3枚掲げてみたが、これと異なる手順を踏めば、違ったゴールに行きついたはずだ。(ちなみにこの習作には遠近法的な誤りがある。忘れないうち修正をするが、それは手順違いでも修正できる範囲内である)