絵の行く末

東通村・白糠にてー気温18°、強風

8/27(月)〜8/30(木)まで、八月2回目の下北行き。今回は自分の車で運べない、大型の絵だけを下北へ置いてくるため。車いっぱい詰め込んだが、残りが少なくなったような気がしない。

下北は初めてだというから、運転してくれる人に少し観光案内をした。尻屋崎〜恐山など一般コースを一日で済ませ、翌日は漁船を描きたいというので、いくつかの漁港廻り。私もついでに、小さなスケッチブックに20枚ほど描いた。

ペンを走らせている時は無心だが、次の場所を探して歩いていると、何故だか無性に侘しい気持に沈みこむ。天候のせいもあったかも。けれど、色々な意味で「終わり」を感じていたからのようだった。自分自身をも含め、文字通り色々な意味での「終わり」。運び込んだ絵も、恐らくもう二度と誰も見ることはあるまい。残りの絵も近々運ばなくてはならないが、それよりは直接こちらの焼却場に運んだ方が良いかなとも考えた。帰りは700kmあまりを車で9時間と早かった。運転しないのにとても疲れた。

異様な部屋

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大抵の場合、個人の部屋ではその人なりの趣味や、好みのようなものが、全体として感じられる。そこは単なる物理的な空間ではなく、その人自身に感覚づけられた、時には一種肉体的と言えるほど濃密な心理的空間でもある。だから、普通はそこに他人の存在を許さない。

今は住んでいない、両親の部屋を片付けて感じるのは、そういう濃密さが全く無いことの異様さだ。例えば野外作業用の父のアノラックが、袖を広げたまま畳の上に広がっている。その上に帽子、軍手、靴下。さらにその上に別のアノラック、帽子、軍手。その上に丸められた母の肌着、カーディガン類と野外用防寒着のうず高い山。山小屋の物置ではなく、そこは夫婦の寝室なのだ。

一部屋しかない家ではなく、いくつも部屋のあるだだっ広い家に、父と母は二人だけで暮らしていた。父は山から帰って来たその足で寝室まで行き、そこでアノラックを脱ぎ捨て、汗だくのシャツをその上に放り、着替えを引っ張り出して、シャワーもせずにそれを着たまま居間に行ったのだろうか。母もまた、家の周りの草むしりから部屋へ直行し、その上に放るように野良着を積み重ねるだけだったのだろうか。父のアノラックは、剥がされた獣の皮のように広げられたまま、10枚も重なっていた。まるで、父が毎回そこに倒れこみ、身悶えしていたかのように。

玄関脇のコート掛けにもアノラック、防寒着が何枚も重ねて掛けられている。それぞれのポケットに、溢れるほどの100円ライター。全部で100個はあるだろう。たぶんライター置き場にしていたに違いない。汗で変色したままの、いくつもの帽子。絶対に使わない筈のものが捨てられない。新品のまま古くなろうとしていても、使おうとしない。死ぬまで使わなかった「古い新品」だらけ。それも衣類以外はほとんど貰い物だろうに(いや、衣類さえも)。父と母は、自分の好きなもの、好きなことに目を向ける勇気がなかったのかも知れない。電気毛布は6人分持っていた。

無芸・無趣味の親

    制作中

誰も住んでいない、実家の両親の部屋を片付けている。処分ではなく、単なる整理整頓。大正13年生まれ、元気過ぎる父は突然のくも膜下出血が原因で既に亡くなった。昭和元年(一週間もない)生まれの母がこのまま亡くなったとしても、処分に困らない。

価値のあるものが一つもないからだ。モノは溢れるほどあり、足の踏み場も無いほどなのに(そこで暮らしてないからなおのこと)、趣味のものや、生き方にこだわるようなものは何一つない。無芸・無趣味。溢れているのはただ雑多な衣類だけ。その衣類にも、色などのこだわりもまったく見出せない。必要なものだけ、量だけ。すべて焼却処分する以上の意味を見出せない。

「ただ生きてきただけ」といえば、あまりに酷な言い方だと思うが、そんな感じ。確かに時代のせいもあろう。戦争に行き、昭和生まれの私たち子どもにに食べさせ、明治生まれの彼ら自身の両親を養い、大勢の兄弟たちばかりかその家族の世話までして、肉体も時間もお金も精神も使い果たして、そのうえ趣味を持てと言われても、そんな余裕があったなどとは思えない。もし、「余分な」趣味があったとしても、それを周囲に納得させるための戦いに、さらに膨大なエネルギーを必要としただろう。それを現代と同等に求めるのは、彼らに対して残酷に過ぎる。要するに、今が豊かな時代になった、ということだ。

父は高等小学校、母は小学校(当時は国民学校)卒だけだが、今の常識に照らしても二人とも「おバカな夫婦」ではなかった。特に母は、家庭さえ許せば向学心に燃えていたし、自分がもっと勉強したかった想いを、ポロポロと雫がこぼれるように幼い私に降りかけた(と思う)。

それなのに、「何のために生きているのか」「自分というものをどう考えるのか」と、浅はかな学生身分の私は親に「詰問」した。それは両親への問いというより、私自身の歴史の無理解による、単に無慈悲な「指弾」だった。なぜ彼らの人生が、目の前の「捨てても構わないボロ切れ」と化したのか、当時の私は無邪気というより、そのような想像力もなく、何も考えていなかった。私が死を迎える時、息子が私の生き方をどう見るか。息子は私のような馬鹿ではないが、私は何だか両親と、結局同じ、無芸・無趣味な人で終わるような気がしている。