手順

「モーニングコーヒー」 水彩

絵を描く場合、油彩よりは水彩の方が、手順に関してシビアである。解りやすく言うと、油彩はどんな描き方をしてもだいたい似たようなゴールに辿り着けるが、水彩画では悪い手順を取ると悲惨な結果になる、あるいは辿り着けないということ。

それは個人的なテクニックなどとはほぼ無関係で、水彩画の原理そのものに理由がある。油絵は明るい方へも暗い方へも自在に進めることができるが、水彩画は暗い方へしか進めない。それをどういう風に進めていくかの順番、つまり手順が狂ってしまうと、もとの明るい位置に戻せないということ。そのことは誰でも一度や二度は失敗して、皆さん経験済みだろう。

だから、水彩画の習作では、構図、構成の検討以外に、実際に描いてみて手順を確認することが少なくない。
 絵のことだけでなく、社会には「ボタンの掛け違い」というのがある。最初のボタン穴の位置を間違えると、途中で気がついてもなかなか修整できないまま、ズルズルと関係がこじれてしまうことを言うが、水彩画もそれとそっくりである。途中経過を3枚掲げてみたが、これと異なる手順を踏めば、違ったゴールに行きついたはずだ。(ちなみにこの習作には遠近法的な誤りがある。忘れないうち修正をするが、それは手順違いでも修正できる範囲内である)

できること、できないこと

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「できる、できない」はどこで分けられるか。「無限の可能性」なんてあり得ない言葉は使わないが、できる可能性がどのくらいあるか、は誰でも考える瞬間があるだろう。

「(何事も)やってみなければわからない」とはわたし自身もよく使う言葉だが、おそらく日本中でこのフレーズが聞こえない日は、一日とて無いに違いない。けれど、ちょっと考えてみると、それはある程度可能性がある(と推定される)場合に言われることであって、多くの場合は「やってみなくても判る」のが普通である。

だから「やってみなければわからない」は、多くの場合「できる可能性がある(高い)」という意味に近い。特に、本人がそう思うとき、断言はできないがそれはたいてい達成できる。それは、本人でなければ計算できない様々なファクターを、ちゃんと計算しているから。
 他人からはどう思われていようと、こと自分のことに関しては、医者や心理カウンセラーなどより自分の方が深く知っている、と無意識に自信を持っているのが、命あるものの自然の姿だ。

「できるかな?」と感じたら、「できる」と思ってまずはやってみよう。簡単に、などといい加減なことは言わないが、きっとできる。これは「意思」とかの問題ではなく、自分の全感覚が弾き出した「計算の結果」だから。他の何よりも信頼できるデータじゃないですか?

日の温みが恋しい

「日差し」 水彩

AIが登場して、世界のビジネス環境はここ数年でさらに大きく変わると言われている。わたしは “世間” の端っこで、中心からかなり遠いところで生きているが、それでもその風を感じるくらいだから、社会のど真ん中で生活している多くの人々には(なかなか直接目に見えるかたちにはならなくても)相当大きな影響があるのは間違いない。

極端なことをいうと、「生きているのが嫌になる」という人が世界人口の三分の一とか、半分くらいになる、そんな世界になるような気がしている。

もちろん、企業やある人々(ビジネスと言ったけれど、一般の会社員と言うような意味ではなく、ほんの一握りの経営者かそれに近い人々、そのような人々)にとってはなくてはならないツールだろうし、便利、快適、環境、あらゆる意味で「神器」となるだろう。
 けれどほとんどの人にとっては、「便利になったなあ」とぬくぬくしているうちに、真綿で首を締められるように、ゆっくり?「不要なヒト」に分別されていく、そんな世界がとうとう来てしまったのではないか。個人だけでなく、企業、業種、国単位でも、そのような “淘汰” はもっとストレートに眼に見えてくるはずだ。どんなに「必死に」頑張っても、そんなことに何の価値もない厳しい世界。それが80億のヒトを抱える世界。
 パンドラの箱は開いてしまった、と前にもAIのことを書いたけれど、その状況はさらに加速していると感じる。幸も不幸も含めて、AI出現以前に戻ることはもうない。

日本人の平均寿命が80歳を超えたのはだいぶ前だ。だんだんそんな歳に近づき、そんな世界を目の当たりにする前にどうやら寿命を終えられそうなのは、幸せと思うべきなのかもしれない。まだ年賀状が机の上に乗っているうちなのに、そんなことを考えてしまう。