コロナ休み

「 Green apple 」 2020

現在、世界のおよそ3分の一にあたる人々に、移動の制限がされているらしい。Covid-19が猛威をふるうヨーロッパでも、犬を散歩させる場合でも自宅から10m以内という厳しい制限のあるところもあれば、庭や公園で友人たちと食事を楽しんだり、スポーツなど身体接触があっても(全体として気をつければ)OKというレベルの国、地域もある。みんながみんなパニックになっているわけではない。

外出制限、テレワーク(自宅でのパソコンによる仕事)、休校、レストランなど生活必需品の販売以外の商店の閉鎖、三人とか五人以上の集会禁止、ほぼあらゆるイベントの中止、美術館・博物館・図書館・劇場などの文化施設の休館…など、要するに強制的に自宅で休みを取れということ。普通のときと違うのは、いつ休みが終わるのかわからないということ。そして、長引きそうだということ。

アメリカ・エール大学のインターネット通信講座の受講者が50万人増えたという。この機会に、新しい資格を取るための勉強を始めたなどというポジティブなニュースが、スマホやパソコンの画面を駆け巡る。「不安がっていても仕方がない。お前も前向きに何かためになることをやれ(文句をいうヒマがあったら)」と圧力をかけられているような気がして、かえってストレスだ。ポジティブも結構だが、ただ体を休めるだけだって悪いことじゃないだろう。

海上で遭難し、ゴムボートなどで漂流する時、早く死ぬ人は体力の消耗より、先が見えないことのストレスによる方が多い、という話をどこかで聞いたことがある。だいぶ昔のことだから、今もそれが事実なのかはわからない。でも、先の見えないのが大きなストレスになることは確かだ。気を紛らす術を知っている方が絶対にいい。図書館から100冊くらい借りておけばよかったが(実際は10冊までしか借りられないが)、真っ先に休館されたのは残念だった。

皿洗い

「Apple」  2020 Alquid

皿洗いしながらいろんなことを考える。じっと座って考えるより、皿洗いしながらの方がなぜかいい考えが浮かぶ。散歩しながらの方がアイデアが浮かびやすいと書いてあるのをよく読むが、私の場合だと目についたものからすぐ連想が広がってしまい、考えることには向かないようだ。

考えることの中身はほとんどの場合、これから描こうとする絵のことだから、朝食のあとの皿洗いが一番重要だ。だからといって、ボーッとして皿を落として割ってしまう、なんてことはない。鍋やフライパンも汚れが残ってないか、シンクの底や縁にソースやキャベツの切れ端がくっついていないかもちゃんと点検する。昨日より今日のほうがきれいになっているのが理想だと、心の中では思っている。そうしながら、頭の別のところで今日これから描く絵を描いてみる。シミュレーションするのである。

実際に描くと、絵の具の滑らかさ具合や、偶然できた色ムラなどに気を取られてしまうが、シミュレーションではまるで他人が描くのを見ているように冷静だ。そして途中で「あれっ?ここおかしいぞ」という場面で停止する。ほとんど録画再生の感覚。頭の中の映像を何度も再生して、気になる部分の原因と解決法を考える。

洗い物はほんの少しだから(特に朝は)長くても30分。普通は15分ほどで終わる。たいていその間に目先の解決法はできあがる。大したことは考えられないし、一回分しかない。それでも、実際にキャンバスの前に立つ前の、このシミュレーションはとても有効だ。皿洗いは私に課せられているわけではない。じっと座ったり、立ちっぱなしだったりするので、頭のリフレッシュと腰の血流のために勝手にやるようになっただけ。皿洗いと絵画の新しい関係である。

魚釣りに行きたくなってきた

「Green Apples」 2020 water color

もう何年も、川へも海へも釣りに出かけていない。川(湖沼)釣り用のロッド(竿)も海釣用のロッドも、何本か階段下のスペースで眠っている。ルアー(魚型の疑似餌)もワーム(虫型の疑似餌)も使わないままのが何種類もある。夜釣り用のリチュウム電池付きの蛍光浮き、ヘッドライト、ライフジャケット、磯用の靴とか…(たぶん)すぐ使える状態に揃っている。

学生の頃によく通った中華料理店(もちろん学生値段)のオーナーは釣り好きで、私のスケッチ用のリュックとイーゼルのセットを釣り道具と勘違いして、「今日はどこで(釣りをしたの?)」と何度も、カウンターの向こうから毎回質いた。今から考えると「そういう「(釣りの)よしみ」だから、この人には特別サービスするよ。いいよね?」と在店中の他の客に暗示してくれていたんだろうと思う。なんて優しい心遣い。当時はそんな心遣いなど深慮できず、「釣りの道具とスケッチの道具の区別も分からないなんて、目が悪いのかな」なんて思っていた。恥ずかしいですが、今になってようやく理解できます。

ある時期の英国では、(男の)子に伝えなければならない「父の義務」は「釣り」(のマナー)だという。「(鱒)釣り」と「(狐)狩」は、「貴族の男児」なら必ずマスターしなければならない「必須科目」だった(らしい)。鎖国で、欧州文化と断絶していた江戸幕府の歴代将軍にも、「鷹狩り」を必須修得科目」としていた事実がある(「偶然」とは言いがたい事例がたくさん)。私はそれを必ずしも肯定するわけではないが、なぜ「釣り」なのか、ぜひその意味は知りたいと思っていた。で、ウォルトンの「釣魚大全」(これは名著ですよ)などを読んだわけです。

「英国から学ぶ必要などサラサラ無い」などと言われれば、無言になるしかない。でも腹いせに、「そんな必要が無い」と断言できる「根拠」を示せよ、くらいは言うのが普通だ。