静かだ

先日、日光へ行ってきた。思ったより紅葉が進んでおらず、紅葉狩りには来週でも間に合うかな、という感じだったが、この夏と秋の暑さ、暖かさのため紅葉などの上側の葉が枯れて脱色したものも多く見られた。例年のような鮮やかな紅葉にはならなそうだ。

中禅寺湖畔の賑やかさを離れ、光徳牧場まで足を延ばすと人影はずっとまばらになる。牧場を見下ろす高台にくると、もう誰も人はいない。ここではもう牛を飼っていないことは柵の壊れ方を見れば一目瞭然(少し下の方では数年ぶりに飼うことになったらしく、そこは柵が真新しかったが牛はいなかった)。それでも、草ぼうぼうになっていないということは、誰かが草を刈っているということだ。

牧草が芝生程度の長さに生えていて、土がそこそこに柔らかく覗いている。それと周りを取り囲む笹と木々。それらが音を吸収するのだろう。まるで防音室内にいるかのような静けさ。かさりと落ちる木の葉一枚一枚の音がよく聞こえる。落ち葉を踏む音が心地よい。

今は田舎と都会のはざまのようなところに住むことになってしまったが、そこではこんな静けさはたとえ真夜中でも味わえない。わたしは田舎者だから、毎日人の顔を見たり見られたりする生活は、正直言って少々鬱陶しい。一人でいるのは子どもの頃から好きだし、多少の不便さには慣れているつもりだ。こんなに賑やかでたくさんの植物、動物がいれば寂しいとは思わないだろうし、それらを観察したり、スケッチするだけでもきっと忙しい。なにより、都会の賑やかな騒音より、この「豪華な静けさ」を得ることの方がずっとわたしにとっては豊かなことだと感じる。都会にはわたしの本当に欲しいものがない。

遠近法の本質

ピンクの花と蘭のスケッチ

遠近法と言えば「透視図法」をすぐ思い浮かべ、「あぁ、苦手なんだよなー」と思った方、「透視図法は一応マスターしている」と思った方、がっかりする必要もありませんし、それで十分だとも思えません。

遠近法はどうしてできたんでしょう?―遠近感、距離感を表現したかったからですよね。でも、なぜそんなものを表現したいんでしょうね?―それは、好きなものと嫌いなものを区別、表現するためだ、とわたしは思うんです。

「ママが大好き」な子どもは、お母さんを(お父さんより)大きく描きます。それが正直な距離感だから。大好きなママに、子どもはいつもくっついています。間近で見るママは時には自分を覆い隠すほど大きな「物体」です。お父さんも優しいけど、ママと同じというわけにはいきません。なので少し離れ、少し小さく見えています。剃り残しの髭が見えるくらいの距離感でね。
 子どもの絵を見ると、距離感の違いは明解に表現されています。これが「遠近法」の本質だ、とわたしはだんだん考えるようになってきました。

わたしがあなたを好きか、嫌いか。この味が好きか嫌いか。この服が着たいか着たくないか。それは視点の裏返しでもあります。子どもから見て、大人が自分を好きか嫌いかは、子どもの生存に関わる大問題。ヒトは生まれた時からそうやって、自分以外のヒトやモノとの距離を測り、自分だけのメジャーを作ってきたんですよね。それが遠近法の原点。
 ヒトやモノとの距離感はそんなふうに一人一人固有のものとして積み重ねられていきます。でもそれだけじゃあ話が具体的に伝わらないから共通のツールが必要だろうね、って生み出されたのが、たとえばメートル法などの距離の単位だったり、ちょっと跳んで「透視図法」、なのではないか、とわたしは想像します。
 あなたの心の中に、あなた自身の「遠近法」があるのをわたしは知っています。それを、見せてくださいね。

アイドリング

教室でのスケッチ

久しぶりに生花のスケッチをした。ほとんど何も考えず、ただ無心に(実際は少しは考えるのだが)目の前の色や形を写し取る作業は、疲れた頭を休めるにはいい時間。

遠くをあてもなく見るのが目の健康には一番いいと、何度か眼科医から聞いたことがある。眼をつぶるのではなく、遠くを見る。完全休止状態にするのではなく、いわばアイドリング状態で休む。