恥ずかしながら

水彩効果

大学時代の同級生からメールが来た。展覧会を見に来るつもりだ、という。なぜだか急にうろたえる。「ヤバい、もうちょっとまともな絵を出さなくっちゃ」。でも、展覧会の一つは明後日からで、もう出品しちゃったし、もう一つだって来週月曜日から始まる。いくらジタバタしてももう遅い。

考えてみると、学生時代から私は絵を描いていたのだが、ほとんど友人たちに見せることはなかった。決して隠したり、隠れて描いたりしていたわけではないが、話題にならなかっただけなのだと思う。卒業、就職、そして多くの同級生たちがそれなりに地位や、あとに残せる資産などを作って退職するようになって、いまだに就職もせず(できず)、地位もなく、資産にいたっては就職1年生にも及ばないというオロカモノはどうしているのか、40年以上もバカの一つ覚えに描き続けている絵というのがどの程度のものなのか、気にかけてくれているのかも知れない、と思う。

たしかに、就職もせず、美大に行ったわけでもなく、ただ単に好きだというそれだけで、40年以上生きてこられたことは自分でも不思議な気もする。多分役に立たないモノ好きも、何人かは世の中にいても悪くはない、と社会が受け入れてくれたからだろう。特に努力もしなかったから、なおさらそうだとしか思えない。それなら、今さらジタバタしなくてもいいかも、とすぐ自分に都合のいいように考える。これが40年の成果です、と胸を張っては言えないが、人の物を盗んで見せるわけではないから、「これだよ」と聞こえないような小さな声で言おうと思う。

面白い本

面白くできたかな?「Apple」と「鳥の習作」

最近読んだ2冊の本。「ほぼ命がけーサメ図鑑」沼口麻子、「身近な雑草の愉快な生き方」稲垣栄洋著、ちくま文庫。「サメ…」は図鑑…確かに図鑑的な内容ももちつつ、ほぼ(研究)エッセイという、少し変わった本。ほぼ体当たり体験でサメ愛に没頭する、その情熱が伝わってくる結構ボリュームのある本。「身近な…」も著者は植物研究者。最近たくさんの本を出しているが、これは文庫で、50種の雑草についての、研究者の視点をベースにしたエッセイ。俳句をやる人にはおススメだ。ただの草が、ただ者でないことを知らずに「草分けて」などとは詠めなくなる。

「ミロの絵本–うっかり地球へ」結城昌子 小学館 という絵本がある。小学低学年対象かな。ミロに注目したところがミソ。図書館へ行くと、子ども対象のアートの本もたくさんある。けれど、大人目線で、言葉だけ理解しやすくしてある、一言で言えば大人感覚の押しつけ、「覚えましょう本」が多い。「ミロ…」を子どもは3分でミルに違いない。けれど、もしかしたら、中身は一生残るかも。大人も一見あれ。

面白い本を読み、見て常に感じるのは、何をやるにも十年単位の「時間がかかるんだな」ということ。著者の情熱が、単なる知識を伝えるだけに終わらせず、著者自身に様々な体験をさせ、冒険をさせてしまう。著者自身が体験的に過ごしてきた、その数百分の一、数千分の一の時間を著者と共有させてくれる本。それが私の「面白い本」の定義であるらしい。

音楽

過日、某小学校の前を通りかかった。

たまたま光線の具合が良かったのか、校舎がとても美しく見えたので自転車を停め、外からスマホで写真撮り。すると突然、「天使の歌声」??構内の目隠し的に植えられた木の向こうで、小学生が10人ほど。先生の指導で、ちょうどコーラスの練習を始めたところらしかった。

帰り道、せっせと自転車を漕いでいると、不意に、今度は太鼓、ブラス(金管楽器)の音が右から。「そら耳か?」と思っていると、鼓笛隊の練習風景が目に入った。

特訓だろうか、女の子10人ばかり。全体指揮者の女の子は少し離れたところで、音を背中に聴きながら指揮棒(鼓笛隊隊長用の)を振る練習。体育着のままの3、4人のブラスと太鼓の指揮は、隊長とは別の女の子が台の上から指揮している。初めてのブラスは大変だろう。でも、きっといい経験だ、と思う。