クリスマス・イブ

「Apple」 F6 tempera 2019

昨日はクリスマスだった。さらにその前日のイブの夜、子どもが大学から帰ってきたのが11時に近かったので、その前に仕方なく夕ご飯を二人で食べてしまった。料理下手の妻にしては、あれこれ工夫して作ったクリスマスのご馳走の方には手をつけず、テーブルに冷えたままにして妻は疲れて寝てしまった。

私は車で駅まで迎えに行く。帰宅後子どもはゴソゴソとどこからかカップラーメンとスナックを引っ張り出してきて、それだけを食べ、せっかく作ったものには手をつけないまま、彼もまた疲れてその場に寝てしまう。私は彼が起きるまで(あるいは彼を無理やり起こすまで)アトリエで絵を描くか、しばらくパソコンで作業する。若い人のいる家庭では珍しくない情景に違いない。

かくれんぼ

今の子どもたちは鬼ごっこやかくれんぼなどするのだろうか。特に調べてもみないが、そういう子どもどうしの関係も、安全で未知の場所(大人からみれば多愛ないが、子どもにとっては十分ミステリアスな)もなくなってしまったのではないか、と勝手な想像をする。

私の子ども時代は毎日、そうした遊びで毎日が暮れた。子どもも多かったし、空き地は有り余っていたし、安全で未知の隠れ場所など無数というに近かった。草むらに隠れてみたはいいが、周りをよくみたらそこら中に蝶のサナギがあって驚いたことや、弟が隠れた場所で眠ってしまい、いつまでも出てこずに大騒ぎしたことも思い出した。

かくれんぼではないが、私を探すための捜索隊を出されたことが二度ある。一度はたぶん中学生2年生の冬。ウサギわなを仕掛けながら、つい遠くの牧場のある山まで行ってしまった時のこと。見晴らしのいい頂上近くに立つと、遠くに雪雲が発達しながらこちらに近づいてくるのが見えた。腕時計など持っていなかったが、すでに午後3時は過ぎていたと思う。

「吹雪になる」と直感した私はすぐスキーで斜面を滑り下り、一目散に帰り道をとった。遠くまで来過ぎたことを一瞬後悔したが、グズグズしている時間はない。

家からそこまでは、夏場でも普通に歩いて3時間以上かかる。下りで、スキーを履いているとはいえ、雪雲に追いつかれるのはすぐだった。半分もいかないうちに雪が降り出し、そのせいでいっそう暗くなり始めた。次第に吹雪になり、そのうち自分がどこをどう歩いているのか分からなくなってきた。

辺りが一層暗くなり、吹雪も強くなり始め、私はかなり焦っていた。吹雪の息が切れた一瞬、遠くに水銀灯の光がチラッと見えた(ような気がした)。家への確かな道を辿り始めてから、心配した両親が依頼した捜索隊のライトと出会った。彼らに叱られながら午後8時頃帰宅。吹雪は止みかけていたが、集落からポツンと離れた我が家の辺りはもう真夜中のようだった。父は「早く飯を食え」とだけ言った。ゴーグルや毛糸のヘッド・キャップを途中で失くしたことに初めて気がついた。

北風好き

今日(10月5日)も暑い。10月というのに埼玉31°〜32°Cの予報が出ている。「季節外れの」との形容詞つきだが、昨日も、その前も連日30℃近かったのだから、もう「季節外れ」などではなくなっている。けれど今朝になって風が昨日までの南風から北風に代わり、日差しの強さの中にも爽やかさが混じってきた。やっと秋が近くなってきたのかと嬉しい。

埼玉でも近年では夏と秋しかなくなってきた(と私には感じられる)。私にとって冬のイメージには雪や氷が不可欠だから、埼玉の冬は晩秋のイメージを越えない。気温もそんな感じだから、雪国用の暖かい衣類はどれも出番なく、数年前に全て処分してしまった。

ネコ好き、犬好きが分かれるように、夏好き、冬好きも分かれるらしいが、データ的には日本人の大方は夏が好きらしい。「明るい」「眩しい」「暖かい」「熱い」人・心などがプラスイメージで捉えられるし、「冷たい」系関連語の多くはその逆の意味を持たされているところからも、多分そうだと思う。もちろん程度の問題で、猫好きだからといって、犬を虐待するわけではないのと同じこと。

私は夏より冬が好きだ。特に雪が降り始めるとワクワクして、じっとしていられない。その点ではきっと猫よりは犬に近い気分。現実には仕事ができず困ったりするのだが、好き嫌いは別問題。肌で感じる引き締まった空気感が好きだし、モノクロに静まった風景は本当に美しいと感じる。でも、それは本当は冬好きというよりは北風好きというべきなのかもしれない。決して冬の「厳しさ」が好きなわけではなく、ほどほど外で遊べる程度の寒さが好きなだけだから。