新しいこと始めよう

「 Apple 2020」  2020 Tempera,Aqyla on canvas

「青いカモメ展」は20日、コロナ下無事(?)終了。私は未完成作品を出品してしまったので、遅ればせながらこの場で完成作を出品します(あまり変わりませんが)。

私的には、「Apple」のシリーズともいえる作品をずっと続けてきました。これが一つの結果と言うほどのものはありませんが、そろそろこれまでの試行錯誤を整理して、総合的な作品を目指していこうと、この作品の前後から考えていました。

今年いっぱいはこのような作品を見る機会が多いと思いますが、すでにいくつかの小品で総合化を試みていますので、それらの試作、失敗作もこれから登場するはずです。期待?してください。

青いカモメ展に戻りますが、「失敗すること」の大切さを今回も感じました。「面白い」と感じられた作品はどれも「失敗と紙一重」か、「失敗の中に面白い試みがある」「失敗とも気づかない」ような作品ばかりでした。多(少)の失敗を認める大らかさと、自分本位の好奇心が「失敗の原因」ですが、そういう意味では、失敗こそ、その人らしさの原点であると私は考えています。

絵画史上のすべての名作は、「それ以前の名作」の前には「大失敗作」ばかりです。絵画史とは「失敗史」そのものなのです。バロックの絵画は、今でこそ絵画の黄金時代と呼ばれていますが、「バロック」という言葉自体、「野蛮な」「奇妙な」という意味を持つ語です。当時は「変な絵だなー」と思われていたのです。

「青いカモメ展」では、もっと変な絵(もちろん自分から変だなどとは思わないでしょうが)をいっぱい描きましょう。新しい絵を描きましょう。でも、「新しい」とは何でしょうか。それは自分にとって「普通で、自然で、面白い」ということです。ただし、「普通」「自然」という意味が、他人の決めた尺度ではなく、あくまで「自分にとって」ということが条件です。ことばは簡単そうですが、これを実現することは、決してたやすくはありません。

ここで「高齢者」という言葉を開き直り的に使いましょう。もう先が長くない。なんだかんだと言いながら、ここまでしぶとく生きてきた。今さら、この先も他人目線の絵を描いていたら、死んでも死に切れないのではありませんか?お孫さんや、ひ孫さんをかわいく描いてあげたって、どうせ義理でしか喜んでくれません。それより、新星爆発じゃないけれど、もう一踏ん張りして、バクハツして死んだ方が楽しくないでしょうか?きっと子どもさんも、お孫さんも「じっちゃん、ばっちゃん、やりたいことやって死んだわ。うらやましー」って、尊敬すると思いますけど。

ああ、九月

「Apple-3colors」(未完) 2020

「ああ五月」「ああ、皐月」とかいう詩や歌をどこかで目にした覚えがあるが、それは五月(皐月)の時候の美しさや、それに重なる快活な情感への賛歌だと記憶している。

「ああ、九月」は「ああ、もう九月になってしまった(しかももう半ば近い)」(それなのに、何にもしていない)という、自責の「ああ」だ。ああ。コロナのせい、暑さのせい、隣家の犬がうるさいせいだ。

やらなくてはならないことを一寸先に伸ばすごとに、心が1ミリずつ縮んでくるような気がする。寿命のローソクが確実に短くなるというのに、また隣家の犬が吠える。いったい、なんだってあの犬はあんなに吠えるのか、隣家の人々は全員耳が遠いのだろうか、それとも耳栓をしながら私に向かって吠えさせてでもいるのだろうか。それに、なんだって九月だというのに、こうクソ暑いのか。私の家に、誰かが嫌がらせにこっそり熱風を送り込んででもいるのだろうか。

私だけが「ナマケモノ」ではないはずだ、たぶん。きっと同類はいるはずだ。隣家の犬や猫やふくろうやミミズの声に悩まされて、なーんにもできない人もいるはずだ。が、そういう人は私には見えない。我が家では、全員が死体のようにゴロゴロ床に転がっているというのに、窓から見える人たちはこの暑さの中を、普段と変わらない速さでさっさと歩き、常に何らかのお仕事をしているように見える。しかも涼しげ。何か、特別な飲み物でもあり、それを私が知らないだけなのだろうか。ああ、苦月。十月は目の前。心がぐんぐん縮む。なのに、私の身体はなぜか仕事に向かうことを拒否している。

「落ち葉」と「枯れ葉」

落ち葉。夕方には虫の声も

連日暑い。今日も西日本では38°超えた地点がいくつかあり、関東でも35°以上を記録。明日から9月だが、近年ではこの時期のこの暑さは、もう珍しくなくなった感じがする。それでも、1週間ほど前から、こおろぎの声を聞くようになった。秋だな、と思う。

庭の木々も草もカラカラに乾いている。午後から久しぶりの雷雨と言うから、期待して空を見たが雰囲気だけ(夜になってから、 10分ほどお湿り程度に降った)。それでも少し涼しい風が吹いてきたから、日暮れに、近所を自転車でちょっと散歩した。

公園の通りはもう枯れた葉が落ちて溜まっている。日照りのせいかもしれないが、目にはいかにも「すでに秋」の風情。ふと、「落ち葉」と「枯れ葉」の違いを考えてみた。

枝についたまま枯れる葉もある。病葉(わくらば)、朽葉(くちば)がそれにあたる。反対に、風雨に叩かれるなどして、緑のまま落ちる葉もあるが、落葉生の木々では、植物自身の生理として自ら葉を落とす。俳句では、落ち葉も枯れ葉もどちらも冬の季語らしいが、落ち葉の方がよく使われるようだ。柿の葉が落ちれば「柿落ち葉」、椎の葉が落ちれば「椎落ち葉」。柿枯れ葉とか椎枯れ葉とは言わない。後者では、なんだか木自体が病気になったように感じられるから不思議。