大学構内をスケッチ中 2021/4/03

宮本常一(つねいち)著「忘れられた日本人」を三十数年ぶりに読みかえした。宮本常一は民俗学者で、柳田国男とはまた別の、人によっては「宮本民俗学」という言い方をする、「旅」をしながら研究資料を自分の足で掘り出していく独自の民俗学を開いた人である。

読んでいると、モノの環境は変わっても日本人の生きざまのようなものが今も底流でつながっているのを感じる。そこには昨今特に声高な、「愛国心」とか「日本人らしさ」などと一言では表し得ない、複雑で、ある意味かえって現代的ともいえる心情がある。名著だ、と思う。民俗学などに興味がない人にもぜひ読まれるべき本だと思う。

彼は病弱であったが、一生を旅し続け、人々の間に座り込んで彼らの物語を聞き続け、それを記録し続けた。ひなびた農家に泊めてもらい、時には乞食の話を聞きにわざわざ橋の下まで出かけている(その記録自体も名文だ)。現代の都会人が「放浪してきた」とカッコよく言うのと根本的に違う泥臭い学者魂と、彼がその父や祖父から受けついだ、人々の暮らしと心への共感が彼の旅を支え続けたのだろう。

春になったが、コロナは浅はかなリーダーどもを振り回し、もうひと暴れも二暴れもする勢い。GO TOなどと能天気なキャンペーンに乗るほどバカでない人は、むしろ折角の自粛だ、本の旅もいいではないか。

「自分磨き」ということば

制作中。これからどうしよう?

「自分磨き」という言葉がコロナ禍下でよく聞かれるようになった。テレワーク(会社と自宅のそれぞれのパソコンをオンラインで結んで仕事すること)などで通勤などの拘束時間が減り、自分のスキルアップのための時間ができたこと。大学生などでは遠隔授業(本来ならこれもテレワークなのだが、なぜかこちらは日本語だ)で、授業時間を自分の裁量で自由にできるようになり、こちらもダブルスクールなどで資格を取ったり、趣味に時間を割くなどできる環境になったことで、自分をブラッシュアップすることを意味する。

インターネット上で見たのは女子大学生の「シェイプアップ」。人気のユーチューバーなのだそうだが、これなど一石二鳥どころか三鳥、四鳥にもなっていそうだ。

けれど、(すべてにおいてそうなのだが)視点がどこにあるかがいつも気になる。スキルアップも会社での仕事のためだったりする。会社の中での仕事をスムーズに回せば地位向上には役立つだろうから、確かに自分のためと言えないことはない。でも、もしその会社を辞めた時に他では役立たないものなら、そのスキルアップは結局は会社のためのものではないだろうか。自分100%に思えるシェイプアップも、美的な基準がどこにあり、なぜそうなりたいのかを考えないと、マニアックなダイエットや筋トレの虜になりかねない。

わたしはどうだろう。コロナ後?に使えるようにパソコンやiPad などにたくさんのアプリをいれ、かなりの時間を割いて使い方の練習をしている。けれど、パソコンが使えなければ絵は描けないのだろうか。iPad などは確かに便利さを感じるが、逆にそれで失うものもあるのではないか。一見するとパソコンができないと困る社会になりつつあるように見えるが、それが「常識」と自分勝手に思い込んでいるだけなのかもしれない。「自分磨き」が「自分すり減らし」にならないよう、よくよく考えなくてはならない。

近くのスーパー閉店

「若い人」 水彩 2021.3

近くのスーパーが今日閉店した。自宅から歩いて10分くらいの一番近いスーパーで、コンビニに近い感覚で買い物に行っていた。十日くらい前から閉店のことは伝わってきていたが、どんな状況かなと夕方覗きに行ってみた。

妻は数日前から「棚にほとんどモノがなくなった」とか「生鮮食品はふつうにある」とか言いながら何度も様子見に出かけていた。いよいよ閉店の今日、夕方何か安くなっているのではないかと一緒にでかけたが遅かったらしい。入場制限がかかり、列に並んでから店内に入ると、ほとんどの棚に「半額」の札があるだけで、肉や一部のお惣菜以外の品物はもうほとんど無くなっていた。

わたしは商品の無い棚や右往左往する人々の写真を数カット撮った。閉店の理由も今のところ分からないし、新築?新装?開店するのか廃業なのかも分からない。コロナの影響があるのかそれもわからないが、閉店という言葉がどことなく暗いイメージと結びついてしまう世代のせいか、混み合う店内の人々と空の商品棚とのギャップをことさら意識してしまう。若い人たちは次の情報をキャッチしているのか「今までありがとう」とか、明るい声で店員さんたちに声をかけている。

小さな店の閉店はニュースなどでも耳にするが、それなりの規模の店が目の前で閉店するのを見る経験はあまり多くなかった。いろんなことがそこに象徴的に重なってかすかなショックを感じていたように思う。ノスタルジーとかいうのではなく、これから起きていくことがらの目に見える一歩のような不安というか。