初心に帰り「過ぎ」?

こんなバカバカしい画像でも・・・(CG)

バカバカしいほど単純なこんな画像でも、すったもんだしたあげく、何時間もかかって描いた。illustratorという、名前くらいなら誰でも知っているアプリで。このブログでもすでに何回かillustrator製の画像をアップしているが、今回の画像はその中でもとびぬけて「バカバカしい」。たとえば青いカモメ展のDMデザインも、実は同じillustratorで描いたものだ。

このアプリの公式チュートリアル、入門のステップ1を真似して描いた。illustrator自体はもう20年も前から使っているが、絵を描くときは別のアプリを使い、こいつはもっぱらレイアウト用。一年に数回使うだけだったが、心の奥底では「こいつを使いこなせたら、もっと何か面白いことができるだろうなぁ」と思ってはいた。それがコロナのおかげで?全くの初心者に戻ってみたのだった。

コレには図形ツールというのがあって、このような単純な図形、単純な塗りなどに使われる。熟練の人の絵を見ると、この単純な図形を恐ろしいほど巧緻に使いこなし、逆にこの単純さを武器にしていることがわかる。—わかるが、やる気がしなかった―難しく、面倒で、それを覚えるための時間を考えると、とても無理だと思った。今もまったく考えは変わらないのに、なぜか踏み出してしまったのは、「もしもコイツを使いこなせたら・・・」という心に巣食ってしまった誘惑と、すでにわたしの脳みそがコロナに侵されてしまったせいなのかもしれない。

こんな調子ではいつ挫折してもおかしくない。だって自分がバカになったみたいで、本当につらいんだもの―ぜんぜん面白くないし。でも、勉強ってそんなもんじゃん、ってロバ的な耐久力だけは人並みにあるのよ。数学もぜんぜんできない(今も)が、もしも数学が分かったらきっと世界の見え方が違うよなーという憧れがある。数学はもうチャレンジできないが、コイツはもうちょっとだけ粘ってみようと思ってるんだ。

傲慢(ごうまん)

「クレマチス」 (CG) 

「傲慢」とは「思い上がっている様子」とか「人を見下したような態度」のこと。人で云えば「鼻持ちならない」奴ってことだが、それが「自分のことだ」と多くの人は思わない。でも実際は―わたしもあなたも「嫌な奴」、かも知れません。

「自分」は自分の心(こころ)に対してはヒカクテキ謙虚で、意外に弱音を吐いたり…欲望を正直にトロ(吐露)したりする。だから、つい自分は「正直者で」かつ「謙虚」だ、なんて思ってしまうのだが、どっこい「他人から見た自分」というやつは、「自分から見た自分」とはとりあえず別人と考えておく方がよさそうです。

自分は「お金持ち」の中には入らない、と(日本では)多くの人が思っているらしい。そりゃあビル・ゲイツとかジェフ・ベゾスに比べれば、ね。でも、隣の家よりいくらかは余裕があると思っている人は9割くらいはいるのではないか。あるいは、日本全体の平均よりちょっと上と思っている人も7割くらいいるのではないか(算数的には合わなくても、ここは感覚的に)。

欲しいものを何でも買えるほどの財力はないが、とりあえず当座の生活に不安はない—そう思える人は(わたしの勝手な定義によれば)いちおう「お金持ち」だ(うれしい?)。—貯金通帳をわざわざ見せてくれなくても結構です。感覚的な話ですから。

—でも、そこが「傲慢」の出発点。実際にはよそよりお金がなくても、「隣よりマシな何かがウチ(自分)にはある」と思うだけで、人は簡単に「傲慢になる」。そう、小さな「優越意識」が「傲慢の種」。誰だって「小さな優越意識」くらいは持ちたいし、精神衛生上もそのほうがプラスな気もするもの。—「正直」「謙虚」という自己肯定感とも矛盾しないし。(この項続き)

俳句

西洋シャクナゲ

俳句を教わり始めてもう十年以上になる。一時は少し熱を上げ、俳人たちの句集を片手に、独りよがりのさまざまな工夫を凝らした時期もあった。忙しいせいもあるが、最近はなんだかその熱も冷めてきた感じ、である。

俳句愛好者の多くはNHKや大手新聞社などメディアの俳句欄に投稿したり、毎月それらをまとめた雑誌を購入したり、いわゆる俳句結社に入会し、句会などで研鑽を積む。結社への入会についてはわたしも少しその気があって、いくつかの結社の成り立ちや師系、句風などを調べたことがある。結局そのどれもやらないのだが、それは「俳句の世界のこじんまりした約束ごと」が、どうも自分の性格にも志向性にも合わない、ということに尽きる。(*たとえば金子兜太の俳句世界が「こじんまり」なのかどうかに異論はあると思うけれど)

俳句の世界の約束事とは何かといえば、「波風を立てない(調和を破らない)こと」だとわたしは感じてきた。花といえば桜のことであり、桜ならば清楚、華やかに決まっていて、散り際のはかなさ、美しさ、潔さという定型のイメージに語を収斂させていく。俳句はその収斂のプロセスでの語句の取り合わせの巧拙、つまり極めてテクニカルな遊び、きっちりゴールの枠寸法の決まった、言葉のゲームなのである。17文字のうち5文字はほぼ「季語」で消費されるから、残り12文字しかない。この12文字で(約束された範囲内の)イメージを描くには「有り合わせ」の「貼り合わせ」にならざるを得ない。季語が「貼り合わせ」の強力接着剤として働き、俳句はこの接着剤にもたれかかるようにして作られていく。

ひとことで言えば、わたしはこの「協調ゲームに」飽きてきたのである。絵画の世界はゲームではない。どこまでも「自分と他人」の違いを意識し、他人(世界)の前に自分一人を「勇気を奮い立たせて」引っ張り出さなければならない、逃げることが許されない世界である。一切の約束事はそこにはない。テクニックなど、そこでは単なるひとつの要素に過ぎず、時には邪魔でさえある。

俳句は「共感」が死命である、といってもいい。俳句以外のすべての芸術も、実は共感を抜きにしては存在し得ないのだが、だからといって共感を前提的に求めてはいない。けれど、共感を求めない俳句ならどうだろう。それはもう俳句とは呼ばれないかもしれないが、短詩型のつぶやきとしての存在ならあり得るだろうか。わたしにとって、俳句とはそのようなものになりつつある。